日本帝国航空メーカー
 航空機メーカーは第二次世界大戦敗北によって多くが航空事業から撤退。その設計思想は、ゼロ戦でも見られるように防弾性を犠牲に、航続力と旋回能力を重視した設計が主流であった。この設計思想が大戦終盤の優秀なパイロットの不足に悩むこととなる。
 現在、航空機あるいはその一部を生産しているのは三菱・川崎・富士・新明和の4社だが、2010年を目処に本田技研工業が参入を予定している。

中島飛行機
 1917年中島知久平により創業。エンジンや機体の開発を独自に行う能力を持ち、自社での一貫生産を可能とする高い技術力を備え、第二次世界大戦中は三菱を凌ぐ東洋最大、世界有数の航空機メーカーであった。第二次世界大戦では、陸軍機の隼、鍾馗、疾風と主力戦闘機を立て続けに受注。海軍機では九七艦攻、天山、彩雲など、数々の名機を設計製造した。エンジン開発では、栄、誉が有名である。
 
終戦により解体となったが、中島飛行機から解体された会社は、富士重工業など多くが現在でも存続する。

≪主要な機種/第二次大戦時≫
    ・九七式戦闘機(陸軍戦闘機)Ki-27
    ・九七式艦上攻撃機(海軍艦上攻撃機)B5N
    ・一〇〇式重爆撃機 呑龍(陸軍双発爆撃機)Ki-49
    ・一式戦闘機 隼(陸軍戦闘機)ki-43
    ・二式戦闘機 鍾馗(陸軍戦闘機)Ki-44
    ・二式双発戦闘機 月光(海軍双発戦闘機)J1N
     ・艦上攻撃機 天山(海軍艦上攻撃機)B6N
    ・四式戦闘機 疾風(陸軍戦闘機)Ki-84
     ・艦上偵察機 彩雲(海軍艦上偵察機)MYRT
   



三菱重工業
 明治において三菱財閥を基とした財閥企業として船舶・エネルギー関連機器・産業機械・航空機など軍需産業も手がけ、1934年に三菱造船と三菱航空機が合併し三菱重工業が創設。
 日本が軍国化を進めていく中で、日本における兵器製造の中心として発展、中島飛行機と争う形で数々の軍用機を設計・製造した。中でも、堀江設計士による零式艦上戦闘機(ゼロ戦)は、超越的な格闘戦闘機として連合軍に恐れられた。
 三菱財閥各部門は、戦艦武蔵の建造も建造、軍艦建造トン数は10倍以上、戦車の製造台数は200倍以上、資本金は20倍以上に成長したが、敗戦(1945年)に伴い、財閥解体。のち3社に分かれた三菱日本重工業、三菱造船、新三菱重工業企業は再統合し、社名を再び三菱重工業株式会社とした。
≪主要な機種/第二次大戦時≫
    ・九六式艦上戦闘機(海軍戦闘機)A5M
    ・九六式陸上攻撃機(海軍双発爆撃機)G3M
    ・九七式重爆撃機(陸軍双発爆撃機)Ki-21
    ・九七式司令部偵察機(陸軍偵察機)Ki-36
    ・九九式襲撃機(陸軍襲撃機)Ki-51
    ・零式艦上戦闘機(海軍艦上戦闘機)A6M
    ・一〇〇式司令偵察機(陸軍偵察機)Ki-46
    ・一式陸上攻撃機(海軍双発爆撃機)G4M
    ・雷電(海軍局地戦闘機)J2M
    ・四式重爆撃機 飛龍(陸軍双発爆撃機)ki-67
    ・烈風(海軍試作艦上戦闘機)A7M
    ・秋水(海軍試作ロケット戦闘機)J8M
≪主要な機種/第二次大戦後≫
    ・T2(ジェット高等練習機)
    ・F1(ジェット支援戦闘機)


 
川崎航空機
 航空機メーカーとしては1918年に川崎造船所の兵庫工場に飛行機科を設けたことで開始し、1922年には川崎造船所の飛行機組立工場(各務原)で初めての飛行機が完成し陸軍に正式採用される。陸軍専門で、特に戦闘機では中島と二強であった。また、ドイツのBMWやダイムラー・ベンツと技術提携し、両社から液冷エンジンのノウハウを得て日本随一の液冷発動機メーカーとしても有名。但し、三式戦飛燕はその空冷エンジンが前線飛行場で整備維持が難しく、それが原因で、エンジン無し機体が大量に残個されることとなり、終戦間際に空冷エンジンに乗せ変えた五式戦闘機につながる事になる。
戦後の1969(昭和44)年、川崎重工業に吸収され、現在も航空機メーカーとして生き続けている。
≪主要な機種/第二次大戦時≫
    ・九八式重爆撃機(陸軍双発爆撃機)Do.N
    ・九九式双発軽爆撃機(陸軍双発軽爆撃機)Ki-48
    ・二式複座戦闘機 屠龍(陸軍双発戦闘機)Ki-45改
    ・三式戦闘機 飛燕(陸軍戦闘機)Ki-61
    ・五式戦闘機(陸軍戦闘機)Ki-100
    ・九九式双発軽爆撃機(陸軍双発軽爆撃機)Ki-48


川西航空機
 1928年に川西財閥飛行機部が川西航空機株式会社として独立。第二次世界大戦時には、早くから飛行艇設計に秀でており、二式飛行艇など海軍飛行艇が多い。また、水上戦闘機「強風」の優秀さから陸上戦闘機に改良を海軍から指示され完成したのが紫電。その紫電を菊原静男らによって再改良したのが、紫電改。
 当時、ドイツの飛行機製作の権威であるアーヘン工科大学航空力学所長のデオドル・カルマン博士を招いて、川西風洞実験所に民間唯一となる直立式試験風洞を設計するなど、先進的な開発を進めた。
 第二次世界大戦終結にともない航空機の製造が中止。1949年に新明和興業株式会社へ社名を変更した。

≪主要な機種/第二次大戦時≫
    ・九七式飛行艇(四発飛行艇)H6K
    ・二式飛行艇(四発飛行艇)H8K
    ・水上戦闘機 強風(水上戦闘機)H1K1
    ・局地戦闘機 紫電(戦闘機)N1K1
    ・局地戦闘機 紫電改(戦闘機)N1K2

    ・高高度戦闘機 陣風(試作戦闘機)J3K1


海軍航空技術廠
 空技廠(くうぎしょう)呼称される、海軍航空機に関する設計・実験、航空機及びその材料の研究・調査・審査を担当する機関であった。
 軍直属の研究開発機関でありながら、高速艦上急降下彗星、双発急降下爆撃機銀河など、戦時下の日本の航空機技術の最先端を歩んだ設計を手がけた。技術的に斬新であるがトラブルも多く運用の現場に負担を強いた設計が多かったことも事実である。
 もちろん、第二次世界大戦での敗戦により解体。

≪主要な機種/第二次大戦時≫
    ・艦上爆撃機 彗星(海軍艦上急降下爆撃機)D4Y
    ・双発爆撃機 銀河(海軍双発爆撃機)P1Y
    ・特殊攻撃機 橘花(海軍試作ジェット攻撃機)

愛知航空機
 航空機の製造は第一次世界大戦後から開始し主に水上機、飛行艇を開発。1943年に愛知時計電機企業から愛知航空機が独立し、海軍向けの攻撃機、爆撃機、水上機等を製造した。
 他社と比べ革新的な性能を持たないが無難で安定した機体設計が多く海軍からは絶大な信用を得ていたが、1944年の東南海地震、翌年の熱田空襲で主要な工場が多大な被害を受け生産制が落ち、
艦上攻撃機 流星改や水上攻撃機晴嵐などの優秀な軍用機は実線配備される前に終戦を迎えた。
 戦後、航空機製造中止命令により、新愛知時計電機株式会社として、公共設備管のメーター製造などで現在に至る。

≪主要な機種/第二次大戦時≫
    ・九九式艦上爆撃機(海軍艦上急降下爆撃機)D3A
    ・零式水上偵察機(海軍偵察機)E13A
    ・水上偵察機 彩雲(海軍偵察機)E16A
    ・艦上攻撃機 流星改(海軍艦上攻撃機)B7A
    ・水上攻撃機 晴嵐(海軍水上攻撃機)M6A


石川島飛行機
 陸軍専用の航空機メーカーとして、練習機、偵察機、輸送機の設計・開発を手がけた。
 代表作の九八式直接協同偵察機は、敵情偵察任務はもちろん、場面によっては敵陣地への銃撃、急降下爆撃、さらには空中戦まで有り得るうえに、飛行場など整備されていない最前線の狭い不整地でも運用できるタフさが要求され、加えて任務上、最高速度と最低巡航速度の幅が広くなくてはならないるという、陸軍の「直協任務機体要求」の条件をクリアし正式採用た機体。

≪主要な機種/第二次大戦時≫
    ・九五式一型練習機 (陸軍初等練習機)Ki-9
    ・九八式直接協同偵察機(陸軍偵察機)Ki-36
    ・九九式高等練習機 (陸軍高等練習機)Ki-55
    ・二式高等練習機 (陸軍高等練習機)Ki-79

日立航空機
 東京瓦斯電気工業が1939年2日立製作所へ経営権を譲渡し、その航空機部門を1939年に分離独立して出来た航空機企業。三菱、中島、川崎、川西の様な機体設計などはせず、練習機の製造と、練習機用小型エンジンの製造供給が主であった。