コラム1.新型戦闘機を設計競争しろ!By スターリン (ソ連、新進気鋭設計局の苦悩)
 1939年、ソビエト赤軍は主力戦闘機ポリカルポフI-16の後継機を求めて、新進気鋭の設計局も含めて設計競争を要求。たぶん独裁者スターリンの鶴の一声だったんだろうなぁ。という訳で、参加した(させられた?)のは、老舗のポリカルポフ設計局、ラボーチキン・ゴルブノフ・グドコフ設計局(長いので以降はラボーチキン設計局と呼ぶ)、ヤコブレフ設計局。
 後にポリカルポフ設計局から暖簾分けされたミヤコン・グレビッチ設計局(長いので以降はミグ設計局と呼ぶ)も加わっての設計コンテストの様になった。
 1939年といえばドイツ軍が電撃戦にてポーランドを占領した年。その時にまだI-16の後継機が決まってないのだから、かなり出遅れてるわな。まあそういう事で慌てて各設計局に指示した訳で、基本構想設計を「西ヨーロッパで実戦化されつつある液冷エンジンの高速単座戦闘機と同じようなやつ」という要求を掲示した。言い換えれば、ソビエトで名機スピットファイアやBf109を作れって言う事。
 まず設計提出してきたのはポリカルポフ設計局。1937年から構想していたとされる機体で、I-17という機体名を付けて原型機製作に入ったが、諸々のトラブルが多発した為に開発は即中止。その後も起死回生でI-17を空冷エンジン(シュベツォフ )に換装したI-18を開発したが、これまたテスト飛行中に墜落し、あえなくボツ。このボツを気にどんどんポリカルポフ設計局は没落して行くんだなぁ。
 次に設計提出があったのはラボーチキン設計局。LaGG-1と名づけられたその機体は、クリモフM-105液冷エンジン搭載。液冷エンジンを搭載した割には機首下の潤滑油空気取り入れ口、及び胴体下のラジエターの関係からかモサ〜としていた。まあ見た目はモサ〜としてても良いけど、木製ボディは強度を上げるためにプラスチックを溶かして塗りこんでありボディが重い、当然エンジン負荷が大きくて問題発生。直ぐに過給器付きのクリモフM-105Pシーリーズにエンジン換装してLaGG-3と命名。ソビエト赤軍当局としても、いつ世界大戦に巻き込まれるかわからない時期に来ているのは判っている。しかも I-16ではBf109E型に全く敵わなかったのはスペイン内戦ではっきりと認識していた。って訳でこのLaGG-3の量産化を決定。1944年まで総計6500機製造される事となるのだが、操縦安定性が悪くパイロットには不評であった。
 ヤコブレフ設計局は計画提出が少し遅れていたが中々良さげ設計を提出。原型機は翌年の1940年1月となってしまった機体は、Yak-1と命名。このYak-1が操縦も素直で特に低空域性能はすこぶる良い。という事でI-16の本命に躍り出る事になって、速攻で重点生産機種に指定。ということで、このYak-1は総生産8721機作られる事になる。
 少し遅れて参加したミグ設計局は、LaGG-3の量産化を見て一工夫して来た。高高度迎撃機として設計を仕上げたのである。原型機は1944年4月に出来てMiG-1と命名。見た目は一番カッコイイ。試験段階で時速648kmをたたき出したが、あらあら、運動能力がかなり不足。高高度迎撃機だから少々の運動不足は目をつぶるにしても、失速速度も高いので、着陸が危なっかしい。まあ、でもとりあえず100機量産して戦闘機の数を増やす事にした。そして直ぐに改良版の開発を命じられてMiG-3が同年10月に完成。胴体延長やラジエター位置変更など施されたがまだ着陸速度が早くて不正地な飛行場では使えないシロモノ。エンジンは液冷のミクリーンAM35A(1350馬力)で上昇力はかなり良いんだがなぁ。でももうこの時期にはドイツ・イタリアは、イギリス・フランスと全面戦争に入っている頃なので、ソ連としても悠長に改良してる暇は無い。とりあえずMiG-3も量産だって事で、結局総生産3000機も作った。このMiG-3って、着陸速度の速さからソビエトパイロットから非常に嫌われ者だったらしです。でも、大きな声でそれを言うとシベリアへ流刑です、当時のソビエトは。
 と、いう事で、第二次世界大戦で戦闘機を担当する新進気鋭の設計局(ラボーチキン設計局、ヤコブレフ設計局、ミグ設計局)が揃い踏みした訳です。○○-1という機種番号で比べてみると、Yak-1の設計が優れてたのがはっきりと判ります。もちろん、そのYak-1は発展開発されてYak7、Yak9、Yak3と朝鮮戦争前半まで主力級戦闘機設計を続けて行く事になります。そんなヤコブレフ設計局は、朝鮮戦争以後は政治的理由にも恵まれず戦闘機分野から追い出される形で旅客機設計に転向してしまう事となるからさびしいものです。
 ミグ設計局は、MiG-3のあとは一旦落ちぶれてしまい、戦後にMiG-15という傑作ジェット戦闘機を生み出してジェット戦闘機では主力設計局となります。
 ラボーチキン設計局は、戦時中にはYak戦闘機のサブ的存在に甘んじるもののLaG-5、LaG-7と量産戦闘機を開発していきますが、ジェットの時代になると試作機を大量に作るも実用機に至ったのはMiG-15と競合したLa-15(それも生産数は僅か)のみで、1960年にラボーチキン氏本人の他界により設計局は閉鎖されてしまいます(後に復活するが三流設計局でしか無かった)。
 そして、忘れてはいけないのが、スホーイ設計局。Yak-1に遅れること数ヶ月の1940年秋に、排気タービン付きの高々度戦闘機Su-1を設計するが、LaGG-1とYak-1の量産化を重要生産機種と指定した後であったため当然注目される事も無く、挙句にはモスクワ郊外からウラル地方への工場疎開中に機体が破損してしまい機体破棄。1942年に改良型を開発しSu-3と命名されるが、排気タービンが依然とよろしくなく開発中止命令を受けたのでありました。そのように不運続きだったスホーイ設計局はジェット戦闘機時代になってMiG設計局に継ぐ二番目の戦闘機設計局までのし上がり、近年Su-27フランカーの設計によってロシア戦闘機設計局の頂点に就く事になったのです。

 
  
 
コラム2.二式戦闘機 東条?

まだ私が小学生の3・4年生ぐらい、兄も良く作ってた影響でミリタリープラモデルに興味を持ち出した頃の話。まあ当時は、ゼロ戦、スピットファイア、メッサーシュミット、ムスタング、コルセアぐらいは見た目で区別出来た位の知識。何かの理由でちょっと多めのお小遣いもらったって事で、近所のおもちゃ屋さんでカッコイイ箱絵が描かれた新機種(当時の私としての新機種)の軍用機プラモを買ってきた。それが、「二式戦闘機・東条」。
あとになって思い返すと「二式戦闘機鍾馗(トージョー)」と箱に書いていたと想像出来るのですが、当時は難しい漢字を飛ばして読んでたのよ。しかも、連合軍コードネームのトージョーは、戦争中の日本首相の名前を連想しちゃって「東条」。この機種名、長〜い間そう思い込んでました。で、箱絵の機種説明には日本陸軍を代表する重戦闘機って書いてた。「へ〜〜、この戦闘機、ゼロ戦と同じくらいの大きさなのに、かなり重いんだぁ」と思ってました。
 この「重戦闘機」の意味は、その後何個か軍用機プラモ作っているうちに正確に覚えました。翼面荷重の大小で重戦闘機か軽戦闘機かが決まるんですね。翼の面積1uあたりでどれだけの運用重量を支えてるかの比率を翼面荷重って言うんですね。
 そんでもって、この翼面荷重が高いほど空気抵抗は減りスピードを出しやすい。但し、一定の揚力を得るにはスピードに乗り続けている必要があり、そのセイもあって旋回能力は悪くなる。この高い翼面積を持った戦闘機を重戦闘機っっていうんだな。逆に翼面荷重を小さく設計すると揚力を得やすく旋回能力はすごぶる良くなって、この手の戦闘機を軽戦闘機と呼ぶんだな。まあ、翼の揚力をあまり語りだすと、アスペクト比や後退角、ティーパー角などの説明まで進んでしまい、とんでもなく難解になるので、そこそこの説明で済ませておきます。
 で、翼面荷重による戦闘機の振り分けだが、もっと簡単にいうと、機体全体の大きさと主翼面積を比較して見て翼面積が小さいタイプの戦闘機を重戦闘機。逆に翼面積の割合が大きいと軽戦闘機。第二次世界大戦勃発前にピークを迎えていた複葉戦闘機なんかは大半が典型的な軽戦闘機ですね。
 細かな翼面過重計算は非常に難解な補正率もあるので、大戦期の代表的な戦闘機でも資料によって数値がまちまちです。そこでちょっと、翼面過重が小さい機体から順番だけ表すと、九七式戦闘機<海軍零式艦上戦闘機二一型<一式戦闘機隼<スピットファイアMkX<P-51Dムスタング<Bf109E<二式戦闘機鍾馗<MiG-3<桜花 っていう順である。
 ハリケーンやFw190A、F4Fワイルドキャット、F6Fヘルキャット、P-39エアラコブラ、Yak-1などは、ムスタング〜Bf109あたりの数値とちょぼちょぼである。
 そうそう、用途別で区別してみれば、練習機ってのは初級な程、翼面積加重を低くして操縦性を重視してるんだな。爆撃機でも、重爆撃機とか軽爆撃機とか呼ぶことがあります。こっちの重い軽いは単に機体が大型か小型から区別されてるのです。輸送機では、輸送出来る貨物重量の重い軽いですね。
 で、このコラムを締めくくろうとしましたら、関連事項として「まとめ」をしておこうと思った事項を思い出したので、それはコラム3にて語ってみたいと思います。



 
コラム3.用途に応じた性能要求とはなんぞや(戦闘機編)
 

前回のコラムの締め括り時に思いついた用語の意味を整理しま〜す。
まず、やっぱ、軍用機を語る上ではその機体の性能って重要ですよね。でもって、これまでにも奇想天外機コーナーでも度々語っていたんですが、軍用機開発は政府や軍に対する要求に応えなきゃ行けないんですね。軍用機であるが上に運用しやすいっていう大前提もあるのはもちろんです。国によってはかなり細かな要求性能の数値を示している事があります。でも大抵は、特定任務に対する高性能化、及び、○○○の後継機って感じの設計要求です。
 では、具体的に、第二次世界大戦時に供給された軍用機任務を、ちょっと整理しておくって事で、箇条書きにしてみますが、どっさり書くと読むのも億劫になるから、今回は戦闘機任務だけにしぼって書きます。
 
主力戦闘機 敵戦闘機を蹴散らし、敵爆撃機等を撃破し、時には味方機を護衛する為の戦闘機用途全般ですね。特に対戦闘機能力が重要視され、かつ、高い生産性も必要ですし、丈夫だと修理しやすさとかの運用上にも文句無い機体であるべきです。年々の言い方なら制空戦闘機と呼ばれてます。当時ならP-51D型以降のムスタングがナンバーワンでは無いでしょうか。スピットファイアとBf109もバージョンアップによって主力戦闘機であり続けた優秀な機体でした。
護衛戦闘機 主に味方爆撃機等を護衛する為に特化した戦闘機。敵戦闘機を蹴散らす能力も必要ですが、味方爆撃機と行動を共に出来る航続力や高空性能も重要ですね。大戦初期までに各国で競って開発された双発戦闘機(Bf110や二式複座戦闘機屠龍、イタリアのSM.34等)はこの任務機として期待されましたが実戦で不合格でした。同時代の機体ではP-38ライトニングが唯一合格ギリギリかな。大戦後半になってくるとP-47DやP-51Dっていう優れた単発護衛戦闘機も登場しました。
高々度戦闘機 大戦が長引くにつれ爆撃も性能が上がってきます。特に一般の戦闘機が上昇して来れない高々度を飛行出来るようになると、相手戦闘機も高々度での迎撃能力が必要となるのは当然の成り行き。高速で強力な火力にプラスして、エンジンに優秀な排気タービンや過吸気装置等を付加し、与圧コピットなどパイロットの気圧対策も重要な要素となりました。攻める側一辺倒になった英米ではあまり需要が無くP-38やスピットファイアがサブタイプで対応したぐらいです。日・独軍は英米大型機による戦略爆撃に悩まされる事になるのですから、かなり重要度が高く数々の高々度迎撃機を設計開発するのですが終戦までに決定版と呼べるものはとうとう出来なかったのが現状です。まあ、実戦化されたもで強いて挙げるとすればMe262AとDo335ですかね。どちらも実戦配備が予定より遅れてしまってたいした戦火をあげれませんでした。
夜間戦闘機 夜間に作戦行動が取れる戦闘機です。この用途機には優秀な機上レーダーと通信が重要要素となります。夜間に敵地侵攻する用途機と夜間迎撃機がありますのが、夜間迎撃機は次箇条する事にして、夜間侵攻する任務の純然たる夜間戦闘機では、優秀な機体が存在していました。それは夜間戦闘機型のモスキート(NF Mk.36やNF Mk.38)で味方夜間爆撃の護衛や誘導に充分な働きをした機体でした。あと米軍では、ライトニングのP-38M、ヘルキャットのF6F-3N・F6F-5N、コルセアのF4U-4Nが優秀な夜間戦闘機でしたがあまり活躍の場は無かったようです。
夜間迎撃機 上記と同じく夜間戦闘を行なう能力を持つのですが、迎撃任務を特化させて航続能力や高速能能力はあまり求められずに、強力な火力を要する武装が求められます。夜間迎撃となると味方基地レーダーから通信でおよその位置までエスコートを受けて、機上レーダーで敵夜間爆撃機を捕捉し迎撃する能力が必要です。視界が悪いのですから、接敵すると一撃で撃破する火力も必要なんです。成功例としてはドイツのHe291ウーフー。このウーフーについては、優れた能力を持ちながら実戦配備数が少なく、ちょっとしたミステリー的な逸話が残っていますので、また別の機会にコラム化したいと思っています。話は、夜間迎撃機に戻って、あと挙げるとすれば、実戦で活躍する場がなかったがP-61ブラックウィドウが能力的に合格点です。そうそう、日本にも夜間迎撃機なるものがありました。それは月光や極光。でも実戦化出来た形式では満足な夜間レーダーが機上に積めず送信側通信能力も不十分で、精神力でカバーしようとしましたが、たいした効果が発揮出来る訳がありませんでした。
艦上戦闘機 航空母艦で運用出来る能力を持った戦闘機です。離着艦能力が必ず必要ですし、一定の航続距離も重要です。また、格納時の工夫も必要なファクターです。戦間期で最優秀なのは前半はゼロ戦21型、後半はF6Fヘルキャットでしょう。英国機は航続力が悪くてだめでしたね。
水上戦闘機 海面に離着水出来る能力を持った戦闘機です。実際、この用途は日本海軍しか実用化されませんでした。日本海軍では、戦闘機としての運動能力はどうしても犠牲になるが、飛行場を要せずに戦闘機配備出来る利便性を重要と考え、戦間期に3機種ほどを実用化しました。中でも二式水上戦闘機(ゼロ戦の水上機型)が活躍しました。



 
コラム4.空母グラーフ・ツェッペリン、出撃せよ!

 ドイツ海軍が建造しようとした航空母艦グラーフ・ツェッペリン。本艦は1938年に進水したが、ドイツ海軍の戦略構想が潜水艦による通商破壊作戦を優先する為にUボート建造に集中する事となり1940年に艤装工事が一旦中断されたり、建造再開するもバルジ装着の追加や搭載させる艦載機問題に手間取っている間に大型艦製造中止命令(1943年春)が出たため、工事は完全に中止となり未完成で終戦を迎えた艦である。
 艦載機の問題も、どの機種にするか等の選定以前から問題が出ていました。ドイツ空軍元帥のゲーリングが、「空を飛ぶ兵器は全部空軍管轄だ〜」と吼えて断固反対するもんだから大騒動になったらしいです。
 で、今回のコラムは、仮説「グラーフ・ツェッペリンが完成していたら」っていう話を書こうと思います。仮説の前提は、1943年に建造中止とならず、逆に「重点生産兵器とされて急ぎ儀装して完成した」、「艦載機は当初予定していた機種を搭載出来た」の二点とした場合です。
 仮説で話を進めると、完成時期はいくら急いでも1943年の秋ですね。その頃のヨーロッパ戦況で言えば、イタリア半島に連合軍が上陸してイタリアが降伏しちゃうのが1943年9月。東部戦線ではドイツ機甲部隊がウクライナまでずるずる押し返されている頃ですね。ノルマンディ上陸はまだですね(1944年6月6日)。でも、もうこの頃のドイツでは米英爆撃機に空襲を受けだした頃だから、いよいよ戦争がやばくなって来ています。そこでグラーフ・ツェッペリンの出撃ですが、建造工事はバルト海沿いのキール軍港でしたから当然完成地もキールです。当時ならB-17フライングフォートレスなどの長距離大型爆撃機に空襲される位置にあるので慌てて出撃しないと行けない状況です。
 搭載した艦載機は、予定していた4機種を積みます。戦闘機は二機種。Bf109Tという機体が主力です。この戦闘機は傑作機メッサーシュミットBf109のE-4型を元にして艦上戦闘機に改造した機体です。カタパルトフックとアレスティング・フックを追加、主脚強化、主翼延長し翼端を折りたたみ式に改造してあって強そうやん。
 「あ〜!でもダメです」、艦載機として致命的な欠陥がありました。左右の主脚間隔が狭くて空母甲板への着艦が極めて難しい。元々からBF109の弱点なんだから、なんで艦上戦闘機への改造でそれを直さないのしょう。
 では、もう一種の戦闘機にがんばってもらおう、Bv155ですね。メッサーシュミット社が当初開発した設計をブローム&フェス社が引き継いだもので、言わばグラーフ・ツェッペリンの為に設計した新機種です。
 「あ〜!でのダメです」、ターボ過給機のトラブルで満足に飛行出来てません。Bf109Tなら発艦だけは出来る(着艦も10機のうち5機ぐらいは無事降りれるかな)から、まだBf109Tのほうがマシでした。
 仕方ないですから艦上爆撃機に期待しましょう。搭載機種はJu87D-4です。ベースは名機スツーカーだし、航続距離がが少し伸びて1,500km、魚雷攻撃も出来てバッチリだ。
 「あ〜!でもダメです」、無武装で最高速度が410km/h、魚雷搭載したら300Km/h以下だ。第二次世界大戦当初だったらこの速度で良いんだろうけど、今時なら護衛戦闘機をたくさん付けなきゃ攻撃地点にたどり着けないやん。やっぱもうスツーカーは旧式化しちゃったんだなぁ。敵戦闘機はスピットファイアMkXやシーファイア。米軍にはP-38が居るし、P-51Dも実戦配備されて来てるって話じゃん。
 もう一機、雷撃専用の新型機があったなぁ。それはFi167。
 「あ〜!でもダメです」、複葉機じゃん。しかも最大速度が無武装で325km/hって、1,000kgのドイツ魚雷積んだらどんだけ遅くなるねん。イギリス海軍でもこんな機体、この時期に新規採用しないぞ。
 「あ〜あ」。仮説でグラーフ・ツェッペリンの大活躍の話を進めようとしましたが、やっぱり無理でした。なぜフォッケウルフFw190A系統を艦載機化しなかったんだろう?一番手っ取り早くまともな艦載機が出来そうで、空冷で整備もしやすいし、戦闘機だけでなく雷撃タイプも陸上型であったから無難にこなせそうなのなぁ。
 仮にMe262やTa152の艦載機バージョンが出来るまで出撃を待っていたらどうだったでしょう。
 「あ〜!でもダメです」、1945年4月9日のキール軍港空爆でポケット戦艦アドミラル・シュアーとともに沈没ですね。
 やっぱ、航空母艦の有効運用って、ちょっと4・5年試行錯誤したぐらいではダメなのね。フランス・イタリア・ソビエトも有効利用出来ずにそろってこけたし。