コラム45.英国海軍の航空母艦事情
 
  アークロイヤル級 イラストリアス級 翔 鶴
艦 名 アークロイヤル イラストリアス
フォーミダブル
ヴェクトリアス
翔 鶴
瑞 鶴
基準排水量 22,000 23,207 25,675
全 長 243m 227m 257.5m
全 幅 28.88m 29m 26m
最大船速 31ノット 30.5ノット 34.2ノット
搭載機 48機 36機 72機
 第二次世界大戦当時、英国海軍の戦力は戦艦至上主義。そもそも7つの海を支配する大英帝国海軍ですから、英連邦諸国との交易や、植民地からの輸送船を初めとする艦隊防衛及び完全確保が任務として成長してきました。特にドイツ海軍は航空母艦も保有せず、Uボートを大量に出撃させただけでなく水上艦艇も通商破壊戦に投入しましたから、英国航空母艦も当然のごとく輸送船団の対潜・対艦運用が主な任務でした。強力な敵は戦艦の巨砲で対応するという思想ですから、日米のように空母決戦なんて考えていませんでした。
 搭載機についても日米空母と比べると搭載機の数も少なく、搭載機そのものの性能も劣るものでした。特にイラストリアス級の第1グループの3隻は特に装甲空母として装甲厚上面・床面76mm、側面114mm、前後64mmに達し、装甲重量実に1500トンを割いた重構造であった。この装甲によって1000ポンド(454kg)爆弾の急降下爆撃に耐えれるが、その反面、搭載機数が極めて少なくなった空母でした。戦艦や巡洋艦に力を注ぎ、どうも航空機開発まで費用が回らなかったのが実情らしいです。
 とにかく英国海軍はその艦載機がショボイのは確かで、1941年のパーペチュアル作戦時でのアークロイヤルにおいても、その搭載機はフェアリー・フルマーが18機、フェアリー・ソードフィッシュ30機となっている。アークロイヤルはこの作戦の帰還中にドイツUボートの雷撃を受けたのが原因で沈没する事になります。
 1941年後半から、戦闘機としてシーハリケーンが配備されますがハリケーンMkTを単純に艦載機として改造しただけのもの。その後継機となったシーファイアもスピットファイアMkXを改造したもので、艦載機としては航続距離が短く使い難い機種でした。航続距離がまともなホーカー・シーフューリーが就役した時には終戦後になってしまっていました。
また、雷撃機については、フェアリー・ソードフィッシュからフェアリー・バラクーダに機種変換したのにも関わらず再びフェアリー・ソードフィッシュに戻ったりしています。何れの機種も魚雷を積むとヨタヨタ飛行でしかなく、九七式艦上爆撃機と比べるとその性能に雲泥の差がありました。
 初期の頃、必ず搭載されていたフェアリー・フルマーは単発複座の軽爆撃機で、艦隊では哨戒任務が主で「戦闘機としても使える」という事でしたが、メッサーシュミットBf109Eやゼロ戦二一型に敵う訳ありません。
 現に、インド洋において日本から仕掛けられて日英空母対決となったセイロン沖海戦では、日本海軍の起こる第一機動部隊(赤城、飛龍、蒼龍、翔鶴、瑞鶴)と交戦していますが、ソードフィッシュ雷撃隊はゼロ戦に完全に封じ込まれ、逆に英艦隊やセイロン島基地は九九艦上攻撃機と九七式爆撃機に徹底的にボコられる結果を招いています。
 そんな英国海軍艦載機ですが、ヨーロッパ海戦では航空母艦たる抑止力には充分な働きをしました。運用的には、ドイツ軍のフォッケウルフFw200や双発爆撃機による船団空襲の抑止力となっていましたし、Uボートから船団を守る役目にはかなり役に立っていました。しかし、英空母グローリーアスは、ノルウェー沖海戦でドイツ巡洋戦艦のシャルンホルストとグナイゼナウに接近戦で補足され砲撃によって轟沈させられてたりしています。
 また艦載機の戦果としては、鈍足で時代遅れのソードフィッシュが、ビスマルク追撃戦で戦艦ビスマルクの舵を雷撃するという殊勲を挙げていますし、イタリア軍港のタラントではイラストリアスから発艦した21機が、イタリア戦艦コンテ・ディ・カブール沈没、その他戦艦2大破、重巡洋艦1駆逐艦1小破という奇襲攻撃を成功させたりしています。

 
  
 
コラム46.Menphis Belle (メンフィス・ベル)

 Menphis Belle(メンフィス・ベル)の映画を見たでしょうか?私は昭和の時代に見た覚えがあったですが、YouTubeで無料で見れるのがあったので、再びじっくり見てしまいました。
 F-17フライングフォートレスのF-10型、シリアル41-24485機(メンフィスベル号)が、英国駐屯の米第8空軍で25回目のミッションを達成すれば搭乗員10人全員が帰国出来る規定になっていて、その25回目の出撃がストーリーのメインです。元ネタは実話で当時プロパガンダに使用されて有名になった機体なんです。ノーズアートは当時流行したカレンダーのマスコットガールであったペティガールズで、機種右側は赤い水着、左側は青い水着が描かれており、本機は現在でも「メンフィス・ベル・パビリオン」に展示されています。
映画では実際のB-17本物を2機使って撮影していて、「The Tuskegee Airmen」というWWU映画に出てくるデタラメ機とは雲泥の差です。
 今回、無料のYouTubeで見れる動画は、Partが10個に分かれていて見づらいし、日本語訳は付いてません。しかも、Part1とPart2はどうやら削除されているようで見つかりませんでした。が、しかし、やっぱ良い映画は見ごたえがありますので、ミリタリー好きの方はいかがでしょうか?
 Memphis Belle (1990) Part 3  Memphis Belle (1990) Part 4 Memphis Belle (1990) Part 5
 Memphis Belle (1990) Part 6  Memphis Belle (1990) Part 7 Memphis Belle (1990) Part 8
 Memphis Belle (1990) Part 9  Memphis Belle (1990) Part 10 
 Part5から、メンフィスベル機の最後の出撃が始まります。Part6から敵の迎撃を受け始めます。Part8あたりから目が離せない展開になってオススメです。
英語版なので、ちょっと解説をPart8以降だけしましょう。。
 Part8=副操縦士が後部機銃座に面白半分で交代してもらって、Bf109を撃墜したらそれが僚機のB-17にぶち当たったり、爆撃投下地点上空に到達するも雲にじゃまされて爆弾投下出来そうに無い状況で、「もうどこでも良いから爆弾落として帰投したいという葛藤」。運よく目的地へ爆弾投下した後、ほっとしてるのもつかの間、腹部旋回銃座がBf109の機銃にぶち抜かれて機銃員が落下しそうになったり、そうこうしてるうちに胴体側面に攻撃を受けて機銃員1名が怪我をしたっていう場面です。
 Part9=今度は第4エンジンを銃撃されて火災が発生。第4エンジンの火災を消すために味方編隊を離れて、急降下を行ないます。結局4基エンジンのうち第1と第4エンジンは破壊されており、残り2基のエンジンで飛んで単機で基地へ帰る事になったメンフィスベル。少しでも機体を軽くするために機銃などは投下する羽目になります。基地上空にヨタヨタでたどり着こうという頃、今度は片側主脚が出ません。手動でレバーをクルクル回して脚を強制的に出すしかありません。
 Part10=ラストシーンです。手動で片側主脚を出そうと試みますが、あちこちにガタが来ていて飛行高度が下がってきます。さあ、脚を出すのが間に合うか。
 そういえば、昔、PCゲームで、このメンフィスベルを題材にしたフライトシュミレーションがありました。海外版だったので難易度設定やキーコンフィグが判らず、離陸させる事も出来なかったのを思い出しました。



 
コラム47.カーチス社のホーク系戦闘機、改造奮戦記 

 カーチス社(当時の正式社名はカーチス-ライト・カンパニー)は、P-36ホークという空冷エンジン戦闘機を製作。、1934年にセバスキー社のP-35と採用争いして敗れましたが、結局はその陸軍航空隊にて補欠採用してもらった機体があります。このP-36ホーク、P&W R-1830ツインワプスエンジン(1,184馬力)を搭載し、フランスやフィンランド、英国にも輸出された機種で、当時としては低空性能に優れヨーロッパ戦線序戦にドイツ軍機相手に奮戦しました。その後ビルマ戦線にて日本陸軍機(主に隼かな?)に敵わずに退役した機体です。
 カーチス社は1937年にこのP-36の大改造を行います。ボディを75cmほど延長し水冷12気筒エンジンであるアリソンV-1710系に換装し、ラジエター吸入口をエンジンのすぐ下に配置させたP-40ウォーホークを完成させたのです。
 このP-40ウォーホークは、速度はP-36ホークよりも70km/hほど優速ながら平凡な機体でありましたが、頑丈な機体で運用性にすぐれ急降下性能が良い為、米陸軍だけで無く、主に戦闘爆撃機として英国、ソ連、中華民国など様々な連合軍で使用されるベストセラー機となり、各派生型を合わせて総生産13,700機。最終派生のP-40Nに至る1944年12月まで生産を続けた機種となりました。
 カーチス社は、このベストセラーとなったP-40ウォーホークがかなりお気に入りだったのです。しかも元はP-36ホークの機体をベースにエンジンを載せ替えただけの手法ですし、一から設計する手間と時間も省けちゃいましたから。そして、カーチス社はこのP-40ウォーホークからエンジン換装による新機種開発を続けてドロ沼にハマっていきます。他社の機種でもやっぱりベストセラー機が出来ちゃうとどうしてもその機体を再改造して「もっと良い機種を」となりますが、カーチス社は延々とこのP-40ウォーホークの改造にのめり込みます。
 まずは、1939年から最高速度660km/hを目指したXP-46を開発開始。P-40ウォーホークをベースにして当時のアリソン系エンジンの最優秀なV-1710-39を搭載し、機首下のラジエターダクトをもっと小さくするという設計。しかしその原型機はP-40ウォーホークの性能を凌駕する事は出来ずに開発を断念。
 1940年にはXP-53としてP-40ウォーホークをベースに層流翼とコンチネンタル・モータース製IV液冷エンジンを採用した試作機を開発。しかしP-51Dマスタングで成功したロールスロイス製マリーンに変更するように陸軍から要求されて、マリーンエンジン搭載に再設計を行ないXP-60の名称を与えられます。
 マリーンエンジンに換装した為に生まれたXP-60ですが、そこからエンジン換装やプロペラ、ラジエター位置など関係者から散々弄くり回されて、試作機が5機しか生産されていないのにも関わらず、派生系が7種類も存在し、どんどんフォルムが変わったあげくに、どの派生型も役立たずで終わった可愛そうな機種となりました。
 右図にXP-60の6タイプのフォルムを載せました。XP-60が液冷マーリン28エンジンに3翔ペラ。XP-60AでエンジンがアリソンV-1710-75に換装して排気タービンが付き、主翼付け根にはその排気タービンのインテイクが付きます。ペラも4翔となり、主脚カバーは省かれています。ここぐらいの派生は他機種でもよくある事です。しかしまだXP-60の派生は続きます。
 XP-60CではP&W R-2800-53の空冷2,000馬力エンジンで二重反転ペラになります。XP-60Dは、XP-60の試作機を使ってマーリンV-1650-3エンジンに換装しペラ4翔にします。元の原型に戻ったって感じです。
 XP-60Eは、アリソンエンジンを搭載していたXP-60Bを使って、エンジンを再び空冷のP&W R-2800-53に換装して4翔ペラにします。YP-60Eは、P&W R-2800-53をよりパワーのあるP&W R-2800-18に換装しキャノピーを水滴型に。一時は量産発注された派生型もあるがキャンセルされたりして振り回されて、結局はどの派生型もボツ。いろいろエンジンを載せ替えましたが、どうも根本的な原因は層流翼の形や表面仕上げが悪かったらしい。
 カーチス社って同じ時期に、SB2Cヘルダイバーの実用化で苦戦(尾翼の方向安定性能が悪い)してますし、その上、SO3CシーミューはそのSB2Cヘルダイバーから改造しています。また、XP-55アゼンダーというヘンテコ先尾翼機や、P-71という巨大戦闘機も忙しい最中に試作したりしています。
 そんなカーチス社の中でも、P-40ウォーホークとSB3Cヘルダイバーは超一流機ではなかったけど、苦労した分だけ米国の戦時下を支える事が出来た機種だった事は間違い無いです。
 そんなカーチス社は、戦後に紆余曲折を経て航空機メーカーを離れて機械や電子機器のメーカーとなっています。



 
コラム48.アクロン号とメイコン号

 1930年代の戦間機にアメリカ海軍で運用された硬式飛行船の2隻。第一次世界大戦から偵察や爆撃に使用された飛行船は航続力が高く哨戒任務や稀に爆撃任務に各国で使われていました。しかし1930年代ともなると、戦闘機の能力が真価して来て、哨戒任務で飛行船を飛ばすには危ない状況でした。飛行船に護衛戦闘機をエスコートさせたいが、如何せん戦闘機の航続力は飛行船と同行させようにも全く足りません。そこで考え出されたのが、パラサイトファイターという方式。飛行船に戦闘機を搭載して必要な時だけ飛行船から発進させるという仕組み。
 1931年にアメリカ海軍が、世界初の実用パラサイトファイター母艦としてアクロン号を就航開始。建造会社はグッドイヤー社で全長240m。巡航速度90km/hながら胴体格納庫内に戦闘機5機(内、1機は未組立て)を搭載していました。搭載されるパラサイトファイター機はカーチスF9Cスパローホークという単座の複葉固定脚の戦闘機。当時としてはオーソドックスな機体ながら、コクピット前方上面に大きなフックが付いていて、アクロンの腹部から出し入れ出来るブランコと呼ばれる係留装置に引っ掛けるというアクロバチックな着艦方法が出来る機種。
 なんとも危なかしい方法ながら、アクロンからの離着艦はたいした事故も無く運用され、同型飛行船としてメイコン号も1933年に完成する目処が立っていた。実際、この頃は戦争なんて起きてないので、もっぱらデモンストレーション的な哨戒任務のみ。
 何度か悪天候時に飛行船自体の事故があったものの、1933年にメイコンも竣工し2隻の飛行艇母艦が揃い踏みしたが、その矢先の1933年4月4日、アクロン号が訓練中のニューイングランド州沖合いで突風に巻き込まれて墜落。搭乗員73名中の生存者がたったの3名だけという大事故を起こした。
 残されたメイコン号は、悪天候化での飛行対策改良も行なわれ、太平洋上でハワイから帰国中の重巡洋艦ヒューストンに乗っているルーズベルト大統領へ本国から運んできた新聞を届けたりのデモンストレーションを行なったりしていた。
 しかし、1935年2月12日にカルフォニア沖で嵐に遭遇し、墜落はしなかったが尾翼を損傷しガス洩れが発生。直ちにバラストの即時で大量投棄が命じられたが、制御が失われ後部が下がった姿勢になって実用高度を超えて上昇してしまい、大量のヘリウムが排出されて浮力が消滅。そのまま全体の浮力を失なってゆっくりと海面に墜落して最後には沈没してしまった。
 このアクロン号のメイコン号と事故により、以後、硬式飛行船の建造は行われることは無くなした。もちろん、パラサイトファイターのカーチスF9Cスパローホークも6機の製造のみで生産をストップ。
 2006年には、メイコン号沈没付近の海底調査が行なわれ、搭載されていたカーチスF9Cスパローホークの着艦用フックの部分などが発見されている。
 尚、アメリカはWWU終戦後に、B-36ピースメーカージェット爆撃機を母艦に、GRF-84Fサンダーストリークをパラサイトフィイターとしてもう一度実用化している。