コラム13.ドイツの双発爆撃機トリオ
 ハインケルのHe111、ユンカースのJu88、ドルニエのDo17は、優れた四発重爆撃機を持たなかったドイツ空軍にとって、主力となった双発爆撃機トリオであった。爆撃任務以外の用途のタイプも派生型として多く開発され、偵察哨戒機、輸送機の他に、夜間戦闘機、雷撃機、対戦車攻撃にまで使用されています。
  He111 H-6 Ju88 A-4 Do17 Z-2
全長 16.4m 14.36m 16.25m
全幅 22.5m 20.08m 18m
翼面積 86.5u 54.7u 55.00u
乗員 5名 4名 4名
最大離陸 14,075kg 14,000kg 8,500kg
エンジン ユンカースJumo211F1 ユンカースJumo211J ブラモ323Pフェンリル
最大出力 1,300馬力×2 1,400馬力×2 1,000馬力×2
最大速度 400km/h 510km/h 427km/h
上昇限度 8,390m 9,000m 8,200m
航続距離 2,800km 2,430km 1,160km
武装機銃 20mm×1、13mm×1 7.92mm×4 7.92mm×6
爆弾搭載 2,500kg 3,000kg 1,000kg
総生産 7,300機 15,000機 2,000機

3機種とも、第一次世界大戦の敗戦によるドイツ航空作戦禁止制限によって、ルフトハンザ航空の旅客機開発を隠れ蓑にして設計が開始された機体で、高速を活かした爆撃をコンセプトに、双発ながら小型軽量な設計である。また搭乗員配置は胴体側部や尾部には配置せず一貫して機首に集中させているのがドイツ爆撃機の特徴です。
 結果的に開発時点での速度重視コンセプトは、戦闘機の進化も著しく高速爆撃機の優位性はすぐに失ってしまう事になります。
 バトルオブブリテンでは味方戦闘機の護衛を満足に得られず損害を多く出し、東部戦線では航続距離や爆弾搭載量に悩まされ、広大な戦域をカバー出来ずに苦戦をし続けながらも、後継機種の量産化がうまく機能せずに終戦まで酷使された機体達でありました。Ju88なんて本来は爆弾搭載を少なくして高速を活かしたピンポイント攻撃(戦術爆撃)に使われるべき機体設計であったのにも関わらず戦略爆撃任務に出撃し損失を増やしていきました。
 右図に3機種の爆撃任務に使用された主要タイプの性能諸元を表しました。それぞれエンジン装備などサブタイプが多いのだが、その生産量から見て主力となったタイプを左から順に表記してみました。表を見て判るとおり、Ju88がもっとも優秀で、やはり総生産機数も飛びぬけています。He111は1935年初飛行し総合力でJu88に劣りながらも、航続能力が高い為、バトルオブブリテンで最も多く出撃したんですね。Ju88は1936年末に初飛行し当初よりマルチ双発機として開発されたため急降下爆撃もこなす能力を持っていました。Do17は初飛行が1934年に初飛行と最も早く、双発爆撃機としてはエンジンには非力さを感じます。スペイン内乱では活躍したが大戦突入時にはバージョンUP型のDo217が部隊配備準備中でありました。しかしこのDo217は胴体最後尾に装備したエアブレーキに不都合が生じて実際の配備は遅れる事になります。とにかく、他に頼る機種がなかった第二次世界大戦前半は、この3機種を大量に生産して数でカバーしようとした見たいです。バトルオブブリテンではJu87スツーカーと合わせた4機種が大量に損失していますが、ノルマンディに上陸されてからも余剰爆撃機としてミステルの母艦に改造されたり、V1発射母艦としても使用されていますからね。
 ドイツには中期以降、他にも双発爆撃機があったじゃないか! そうです、Ju88は、Ju188、Ju288とバージョンUPして行きます。Do17もDo217、Do317とバージョンUPしていきました。でも、英米の四発重爆撃機に戦略爆撃を受けだしたドイツ航空機産業はそのバージョンUP版を満足に量産化出来ず、戦局的にも双発爆撃機を有効に作戦投入出来るものでは無くなって来たのですね。しかもHe111を開発したハインケルは、バージョンUP機種を作らなかった。「なぜ?」って、四発重爆撃機のHe177を必死になって実用化させようと頑張っていたらしいです。らしいと言うのは、その合間にHe176というロケット機を作ったり、He219ウーフという量産に向かない夜間戦闘機を作ってドイツ航空省から反感をくらっていましたからね。

 
  
 
コラム14.ドイツ双発爆撃機トリオを他国機と比べてみよう

 前コラムで、ドイツ双発爆撃機トリオを褒めちぎろうとしましたが、若干失敗しましたので、今度は他国機と比べてみようと思いますが、Ju88の使い方で述べましたが双発爆撃機といっても、敵地奥地に集団で飛来させて敵の重要拠点を水平爆撃させる「戦略爆撃」の任務に向くものと、敵前線近辺で味方地上軍を支援するために敵拠点をピンポイント攻撃させる「戦術爆撃」の任務に向くものがあります。ドイツ空軍は「戦術爆撃」はJu87スツーカーやFw190の戦闘爆撃タイプに任せて、この双発爆撃機トリオをもっぱら戦略爆撃に使用しました。何度も言うようですがそれ以外に戦略爆撃任務に使える機種が無かったのが現状でした。
 では他国の戦術爆撃に使った機体と比べてみましょう。、まずは、同じ双発爆撃機の米陸軍B-25ミッチェル。1940年に初飛行したB-25、最大量産されたJ型の性能緒元で見ると意外にもHe111よりも見劣る
  B-25J ミッチェル B-17G 一式陸攻13型
全長 16.1m 22.66m 19.97m
全幅 20.6m 31.62m 22.88m
翼面積 57u 131.92u 78.12u
乗員 6名 9〜10名 7〜9名
最大離陸 19,000kg 34,800kg 12,895kg
エンジン ライトサイクロンR-2600 ライトサイクロンR-1820 火星15型
出力 1,700馬力×2 1,200馬力×4 1,460馬力×2
最大速度 438km/h 462km/h 453.7km/h
上昇限度 7,500m 10,850m 9,660m
航続距離 2,200km 3,219km 2,176km(爆撃時)
武装機銃 12.7mm×12 12.7mm×13 7.7mm×4、20mm×1
爆弾搭載 2,800kg 8,000kg 800kg
総生産 9,550機 12,731機 2,416機
箇所が多いですし、Ju88には完全に性能負けしています。B-25は馬力があるエンジンを積んでいる割には最高速度や爆弾搭載量にその高馬力能力が現れていません。やはり米軍機は機体構造自体をより頑丈に作っているセイでしょう。しかも、固定武装が12.7mm機銃を12基も積んでいますので、高い防御力を示しています。
 では、このB-25の高い防御力をもってドイツへの爆撃主力としてガンガン出撃させたのかと言うと、違います。B-25やB-26マローダはあくまでサブ的な爆撃機でした。そう、ヨーロッパ戦線では英米の主力爆撃は四発重爆撃機でした。具体的には、日中は米空軍のB-17フライングフォートレスが担当、夜間爆撃は英空軍のアブロ・ランカスター、ハンドレイ・ページ・ハリファックス、ショート・スターリング等でした。右図中列の性能緒元を見るとさすがにB-17となるとその能力も余裕を感じる程の数値です。爆弾搭載量が8,000kgも然ることながら、高度10,000m近くを巡航出来ますから、ドイツの迎撃は苦労したのですね。航続力も英国本土からドイツ国内への距離としては余裕ですから、各飛行場から発進したB-17を簡単に空中集結させて集団爆撃なんて出来たのですね。
 で、日本海軍が誇った双発爆撃機(日本では攻撃機と呼んでいます)の一式陸攻も比較してみましょう。初飛行は1939年で速度や航続距離(偵察任務の装備では航続距離は5,900kmもあった)は他の双発機と比べて見劣りしませんが、あらあら大変、爆撃搭載量がたったの800kg。機体サイズも無駄にデカイ、固定武装もショボイ。この緒元には現れてませんが、機体の防弾処理が皆無で「ワンショットライター」と揶揄されていたほどです。一式陸攻の乗員数ですが、7〜9名と人数幅がありますよね。これって、当初は定員9名だったのですが、あまりにも搭乗員消耗が激しいので定数を7名に変えたんですよ。
 日本陸軍の主力双発爆撃は九七式重爆撃機。初飛行が1936年で1,080馬力空冷エンジンを2基で最大速度432km/h、航続距離2,500km、爆弾搭載量1,000kg迄、総生産機数は2,064機。一式陸攻撃よりは防弾に優れていて陸軍では愛用されましたが、これまた爆弾搭載量がショボく、初期設計によるペイロード余裕がなく派生型性能アップが捗らずに旧式化が早かった機体でした。
 イタリアの主力戦術爆撃機は1934年初飛行のサボイヤマルケッティSM.79です。双発爆撃機ではなくて三発機なんです。エンジンを三つ積んだのは二つではあまりにも馬力不足だったからで、三発(750馬力×3)でもその性能はやはりドイツ双発爆撃機トリオよりもワンランク格下です。総生産機数は1218機でした。
 英国での双発爆撃機は、ブレニウム、ハンプデン、ウエリントン、ホイットレーなど種類は多いのですが戦術爆撃に使われたのはウエリントンぐらいで何れも性能的に旧式化が目立ち、B-25やA-20ハボック、マーチン・バルチモアを米国から輸入して使っていた状態でした。まあ、英国は四発重爆撃機のアブロ・ランカスターが優秀だったし、双発爆撃機での戦略爆撃にはあまり力を入れていませんでした。
 ソビエトの双発戦略爆撃機の主力はツポレフTu-2(1941年初飛行)、1,850馬力のエンジン2基で最大速度512km/h、航続距離2,000km、爆弾搭載は最大2,000kg迄とカタログデータでは良いですが、爆弾搭載は1,000kgに抑える必要があったらしいです。総生産数は2,527機。Pe-2は優秀な双発爆撃機であるが、どちらかというとA-20ハボックやモスキートと同じように高速軽爆撃機であり戦術爆撃機(双発攻撃機)というジャンルであると思われる。
 その他、フランスやオランダ、チェコでも主力とされた双発戦略攻撃機が存在していましたが、具体的な性能数値を挙げるまでも無く、そこそこの出来栄えでしかありませんし、生産機数も少ないです。
 あと、それこそ終戦末期には各国で優れた双発爆撃機が登場していますが、部隊配備数が少なかったり、試作段階であったりして、それほど戦況を左右したと思えません。
 ということで、ドイツ双発爆撃機トリオを比較してきましたが、結果としては英米の四発重爆撃機に圧倒されてしまいましたが、双発戦略爆撃機というカテゴリーでは当時間違い無くトップクラスだったという事です。特にJu88は多目的用途もこなせて、非常に優秀だったと思われます。ということで、私的にベストスリーを挙げると、B25ミッチェル、Ju88、Tu-2です。



 
コラム15.旧式化した軍用機はその後どうするの? 

 当たり前の話ですがどんな名機であっても最終的にはスクラップとなります。運が良ければ博物館で丁重に保管されたりしますが、戦闘で破損せず無傷であっても躯体の耐用年数がありますし、優秀な後継機種が出来てそれ交代なんて事になります。で、今回のテーマはスクラップの話ではありません。スクラップするまでも損耗していないが、本来の任務機としては第一線から引退させないといけない場合の機種です。第二次世界大戦中は軍用機の進化が早かった期間ですから、メイン任務から外れた機種なのにたくさん作りすぎて結構余っちゃったていうケース。また、実戦配備当初に駄作だった事が発覚して既に作ってしまった分をどうしようってのもあります(特に英国機がこのパターン多い)。
 では各国の主要参戦国は、そういう軍用機をどうしていたかっていうと、「@同盟国に買って貰う」が一番ベストです。「世界の兵器工場」を自負していた米国なんて、英国を初めとする英連邦諸国やソ連、南アメリカ諸国などにうまく余剰機種を販売して儲けたりしています。ソ連へ販売したP-39エアラコブラや、フィンランドへのB-239(F2Fバッファローの輸出型)なんて、なまじっかそっちの国で大活躍とかしちゃって感謝された成功例もあります。
 販売出来なかったら「A優秀な爆撃機なら輸送機や哨戒機に改造して使う」、「B素直な操縦性の機種なら練習機に格下げする」、「C複座以上の機種なら連絡機・気象観測機に使う」、「D標的曳航機に改造して使い切る」、「Eその他の特殊な用途に使う」というケースになります。
 Aのケースが各国で行なわれたのは容易に想像が付きますよね。Bのケースは結構機種が限定されますし、練習機として専門に開発された機体も存在するのであまり数が要るものではありません。Cのケースもそんなに数が要るもんじゃありません。という事で、DとEのケースについては色々と具体例をあげてニンマリしましょう。
 まずは、先に「Eその他の特殊な用途に使う」の具体例を挙げていきます。以前のコラムでも書きましたが、ドイツの双発爆撃機トリオの余剰機体は、ミステル飛行爆弾の母機に使われたりしています。またHe111なんて2機をくっ付けてHe111Zという巨大グライダーを曳航する機体に改造されてもいます。日本では悲しいかな終戦末期に余っていた二線級機体は武装等重いものを降ろして片道燃料だけ積んだ特攻仕様なんかに改造しちゃっています。この時に搭載する爆弾なんてワイヤーでぐるぐる巻きに胴体腹部に巻きつけただけのケースもありました。イタリアは連合軍に降伏した時点で上層部から何の指示も受けられずに連合軍やドイツ軍に接収された余剰機体がたくさんありました。SM.85は地中海気候にも関わらず余剰機体を露天放置していたら風化しちゃいました。英海軍の艦上戦闘機ブラックバーン・ロックは単発機でありながら後方動力銃座を搭載したが為に重くて艦上戦闘機としてすぐに引退させられた機種ですが、陸上基地に放置して二次利用先を相談しているうちに、その基地が空襲を受けて、露天係止していたブラックバーン・ロックが離陸せずに動力銃座を使って実際に何機かのドイツ機を撃墜したって話もあります。また、フェアリー・ヘンドンという機体は15機を完成させたのだが飛行そのものが危なっかしくて、無線訓練や作業用訓練として「飛行させてはいけない練習機」に任命されたりしています。
 「D標的曳航機として改造して使い切る」は、各国で行なわれましたが普通はそんなに数が必要なものではありません。だがしかし大変、英国はこの標的曳航機に格下げされた機種(標的曳航機としてしか使い道が無かった機種)が多いのってなんの。当時は英連邦宗主国であるから、余剰機種を半分無理やりに売りつけられる国があったのに断固拒否されたのでしょうか?やたら標的曳航機になった機種が多い。実際にある程度の数が標的曳航機になった機種は、ウエストランド・ライサンダー、ブラックバーン・ボウタ、ブラックバーン・スキュア、ボールトン・ポール・デファイアント、フェアリー・バトル、ホーカー・ヘンリーです。デファイアントに至っては200機を越える機数が標的曳航機になっています。しかもそれでも足らなかったのか、同時期にアームストロング・ホイットワース・アルベマール、マイルズ・マーチネットという2機種の標的曳航専用機まで量産しっちゃっている(2機種だけでも約2,300機)から不思議です。
 ちなみに現在では、標的を曳航しなくても標的自体で飛行できる無人の無線標的が使われてますよね。



 
コラム16.第一次世界大戦のトップエース、リヒトホーフェン

 第一次世界大戦最高の撃墜記録持つのは、ドイツのマンフレート・フォン・リヒトフォーフェン。真紅のアルバトロスD.VやフォッカーDr.Tを愛機とし、味方からは「赤い戦闘機乗り」「赤い男爵」と尊敬され、敵からは「赤い悪魔」「レッドバロン」と言われて恐れられていた。
 1915年5月に念願の飛行訓練所へ入所した当時、まだ所属した飛行隊には戦闘機が無く、写真偵察や着弾観測の任務に就いていたが、その後ロシア戦線から戦闘機パイロットとなり、西欧戦線に転属後に「戦機集中投入による敵機駆逐理論」を提唱していたオスベルト・ベルケと出会い、空戦技術が開眼していくことになる。
 1916年9月に初撃墜をし、さらに英空軍のトップだったラノー・ホーカー少佐のエアコーDH.2と交戦し、45分に及ぶ激闘の末に撃墜して一躍有名になった。1917年に1月には16機撃墜の武功を認められプール・ル・メリット勲章を授与され、同月、エリート・パイロットたちで編成される第11戦闘機中隊(Jasta11)の中隊長に任命された。この中隊は部隊識別色として機体配色に赤を採用しており、中でもマンフレート・リヒトホーフェンの乗機は全体が赤く、特に目立つ物であった。このことがドイツ国内のプロパガンダに使われ、敵にも「赤い戦闘機乗り」の名が知られるようになった。
 1917年4月、ドイツ空軍部隊の大攻勢によりイギリス空軍は空前絶後の損害を出していて英国では「血の4月」と呼ばれているが、このときマンフレート・リヒトホーフェンは21機も敵機を撃墜している。また、1917年6月には、第1戦闘航空団が編制されるとその戦闘航空団司令に任命され、部下に空中戦理論を教えることで隊全体のスコアを上げている。そのため第1戦闘航空団は多くのエースを輩出し、連合軍から「フライング・サーカス」、「リヒトホーフェン・サーカス」と畏怖されられた。
 1918年4月21日に、英空軍のウィルフリド・メイ 中尉のソッピーズ・キャメルを追撃中に、オーストラリア地上軍からの対空砲火を胸と腹に受け墜落死した。当時26歳、最終階級は大尉、前人未踏のスコアである80機撃墜(未公認2を除く)を達成し、人物的にも紳士的な態度は天駆ける騎士と賞賛され続けた。
 尚、彼の死後、第一戦闘機大隊の指揮はヘルマン・ゲーリング(後のドイツ空軍総司令官)に引き継がれている。
 マンフレート・リヒトホーフェンの弟ロタール・リヒトホーフェンも40機撃墜のスコアを挙げ第一次世界大戦を最後まで戦い抜いている。そんなリヒトホーフェン兄弟の名前は第二次大戦後も伝統戦闘航空団の一つとしてドイツ連邦軍空軍部隊の第71戦闘航空団「リヒトホーフェン」に継承されている。
 余談になるが、ガンダムに出てくるシャア少佐は、このマンフレート・リヒトフォーフェンをモデルとしている。