前コラムで、ドイツ双発爆撃機トリオを褒めちぎろうとしましたが、若干失敗しましたので、今度は他国機と比べてみようと思いますが、Ju88の使い方で述べましたが双発爆撃機といっても、敵地奥地に集団で飛来させて敵の重要拠点を水平爆撃させる「戦略爆撃」の任務に向くものと、敵前線近辺で味方地上軍を支援するために敵拠点をピンポイント攻撃させる「戦術爆撃」の任務に向くものがあります。ドイツ空軍は「戦術爆撃」はJu87スツーカーやFw190の戦闘爆撃タイプに任せて、この双発爆撃機トリオをもっぱら戦略爆撃に使用しました。何度も言うようですがそれ以外に戦略爆撃任務に使える機種が無かったのが現状でした。 では他国の戦術爆撃に使った機体と比べてみましょう。、まずは、同じ双発爆撃機の米陸軍B-25ミッチェル。1940年に初飛行したB-25、最大量産されたJ型の性能緒元で見ると意外にもHe111よりも見劣る
では、このB-25の高い防御力をもってドイツへの爆撃主力としてガンガン出撃させたのかと言うと、違います。B-25やB-26マローダはあくまでサブ的な爆撃機でした。そう、ヨーロッパ戦線では英米の主力爆撃は四発重爆撃機でした。具体的には、日中は米空軍のB-17フライングフォートレスが担当、夜間爆撃は英空軍のアブロ・ランカスター、ハンドレイ・ページ・ハリファックス、ショート・スターリング等でした。右図中列の性能緒元を見るとさすがにB-17となるとその能力も余裕を感じる程の数値です。爆弾搭載量が8,000kgも然ることながら、高度10,000m近くを巡航出来ますから、ドイツの迎撃は苦労したのですね。航続力も英国本土からドイツ国内への距離としては余裕ですから、各飛行場から発進したB-17を簡単に空中集結させて集団爆撃なんて出来たのですね。 で、日本海軍が誇った双発爆撃機(日本では攻撃機と呼んでいます)の一式陸攻も比較してみましょう。初飛行は1939年で速度や航続距離(偵察任務の装備では航続距離は5,900kmもあった)は他の双発機と比べて見劣りしませんが、あらあら大変、爆撃搭載量がたったの800kg。機体サイズも無駄にデカイ、固定武装もショボイ。この緒元には現れてませんが、機体の防弾処理が皆無で「ワンショットライター」と揶揄されていたほどです。一式陸攻の乗員数ですが、7〜9名と人数幅がありますよね。これって、当初は定員9名だったのですが、あまりにも搭乗員消耗が激しいので定数を7名に変えたんですよ。 日本陸軍の主力双発爆撃は九七式重爆撃機。初飛行が1936年で1,080馬力空冷エンジンを2基で最大速度432km/h、航続距離2,500km、爆弾搭載量1,000kg迄、総生産機数は2,064機。一式陸攻撃よりは防弾に優れていて陸軍では愛用されましたが、これまた爆弾搭載量がショボく、初期設計によるペイロード余裕がなく派生型性能アップが捗らずに旧式化が早かった機体でした。 イタリアの主力戦術爆撃機は1934年初飛行のサボイヤマルケッティSM.79です。双発爆撃機ではなくて三発機なんです。エンジンを三つ積んだのは二つではあまりにも馬力不足だったからで、三発(750馬力×3)でもその性能はやはりドイツ双発爆撃機トリオよりもワンランク格下です。総生産機数は1218機でした。 英国での双発爆撃機は、ブレニウム、ハンプデン、ウエリントン、ホイットレーなど種類は多いのですが戦術爆撃に使われたのはウエリントンぐらいで何れも性能的に旧式化が目立ち、B-25やA-20ハボック、マーチン・バルチモアを米国から輸入して使っていた状態でした。まあ、英国は四発重爆撃機のアブロ・ランカスターが優秀だったし、双発爆撃機での戦略爆撃にはあまり力を入れていませんでした。 ソビエトの双発戦略爆撃機の主力はツポレフTu-2(1941年初飛行)、1,850馬力のエンジン2基で最大速度512km/h、航続距離2,000km、爆弾搭載は最大2,000kg迄とカタログデータでは良いですが、爆弾搭載は1,000kgに抑える必要があったらしいです。総生産数は2,527機。Pe-2は優秀な双発爆撃機であるが、どちらかというとA-20ハボックやモスキートと同じように高速軽爆撃機であり戦術爆撃機(双発攻撃機)というジャンルであると思われる。 その他、フランスやオランダ、チェコでも主力とされた双発戦略攻撃機が存在していましたが、具体的な性能数値を挙げるまでも無く、そこそこの出来栄えでしかありませんし、生産機数も少ないです。 あと、それこそ終戦末期には各国で優れた双発爆撃機が登場していますが、部隊配備数が少なかったり、試作段階であったりして、それほど戦況を左右したと思えません。 ということで、ドイツ双発爆撃機トリオを比較してきましたが、結果としては英米の四発重爆撃機に圧倒されてしまいましたが、双発戦略爆撃機というカテゴリーでは当時間違い無くトップクラスだったという事です。特にJu88は多目的用途もこなせて、非常に優秀だったと思われます。ということで、私的にベストスリーを挙げると、B25ミッチェル、Ju88、Tu-2です。 |
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当たり前の話ですがどんな名機であっても最終的にはスクラップとなります。運が良ければ博物館で丁重に保管されたりしますが、戦闘で破損せず無傷であっても躯体の耐用年数がありますし、優秀な後継機種が出来てそれ交代なんて事になります。で、今回のテーマはスクラップの話ではありません。スクラップするまでも損耗していないが、本来の任務機としては第一線から引退させないといけない場合の機種です。第二次世界大戦中は軍用機の進化が早かった期間ですから、メイン任務から外れた機種なのにたくさん作りすぎて結構余っちゃったていうケース。また、実戦配備当初に駄作だった事が発覚して既に作ってしまった分をどうしようってのもあります(特に英国機がこのパターン多い)。 では各国の主要参戦国は、そういう軍用機をどうしていたかっていうと、「@同盟国に買って貰う」が一番ベストです。「世界の兵器工場」を自負していた米国なんて、英国を初めとする英連邦諸国やソ連、南アメリカ諸国などにうまく余剰機種を販売して儲けたりしています。ソ連へ販売したP-39エアラコブラや、フィンランドへのB-239(F2Fバッファローの輸出型)なんて、なまじっかそっちの国で大活躍とかしちゃって感謝された成功例もあります。 販売出来なかったら「A優秀な爆撃機なら輸送機や哨戒機に改造して使う」、「B素直な操縦性の機種なら練習機に格下げする」、「C複座以上の機種なら連絡機・気象観測機に使う」、「D標的曳航機に改造して使い切る」、「Eその他の特殊な用途に使う」というケースになります。 Aのケースが各国で行なわれたのは容易に想像が付きますよね。Bのケースは結構機種が限定されますし、練習機として専門に開発された機体も存在するのであまり数が要るものではありません。Cのケースもそんなに数が要るもんじゃありません。という事で、DとEのケースについては色々と具体例をあげてニンマリしましょう。 まずは、先に「Eその他の特殊な用途に使う」の具体例を挙げていきます。以前のコラムでも書きましたが、ドイツの双発爆撃機トリオの余剰機体は、ミステル飛行爆弾の母機に使われたりしています。またHe111なんて2機をくっ付けてHe111Zという巨大グライダーを曳航する機体に改造されてもいます。日本では悲しいかな終戦末期に余っていた二線級機体は武装等重いものを降ろして片道燃料だけ積んだ特攻仕様なんかに改造しちゃっています。この時に搭載する爆弾なんてワイヤーでぐるぐる巻きに胴体腹部に巻きつけただけのケースもありました。イタリアは連合軍に降伏した時点で上層部から何の指示も受けられずに連合軍やドイツ軍に接収された余剰機体がたくさんありました。SM.85は地中海気候にも関わらず余剰機体を露天放置していたら風化しちゃいました。英海軍の艦上戦闘機ブラックバーン・ロックは単発機でありながら後方動力銃座を搭載したが為に重くて艦上戦闘機としてすぐに引退させられた機種ですが、陸上基地に放置して二次利用先を相談しているうちに、その基地が空襲を受けて、露天係止していたブラックバーン・ロックが離陸せずに動力銃座を使って実際に何機かのドイツ機を撃墜したって話もあります。また、フェアリー・ヘンドンという機体は15機を完成させたのだが飛行そのものが危なっかしくて、無線訓練や作業用訓練として「飛行させてはいけない練習機」に任命されたりしています。 「D標的曳航機として改造して使い切る」は、各国で行なわれましたが普通はそんなに数が必要なものではありません。だがしかし大変、英国はこの標的曳航機に格下げされた機種(標的曳航機としてしか使い道が無かった機種)が多いのってなんの。当時は英連邦宗主国であるから、余剰機種を半分無理やりに売りつけられる国があったのに断固拒否されたのでしょうか?やたら標的曳航機になった機種が多い。実際にある程度の数が標的曳航機になった機種は、ウエストランド・ライサンダー、ブラックバーン・ボウタ、ブラックバーン・スキュア、ボールトン・ポール・デファイアント、フェアリー・バトル、ホーカー・ヘンリーです。デファイアントに至っては200機を越える機数が標的曳航機になっています。しかもそれでも足らなかったのか、同時期にアームストロング・ホイットワース・アルベマール、マイルズ・マーチネットという2機種の標的曳航専用機まで量産しっちゃっている(2機種だけでも約2,300機)から不思議です。 ちなみに現在では、標的を曳航しなくても標的自体で飛行できる無人の無線標的が使われてますよね。 |
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第一次世界大戦最高の撃墜記録持つのは、ドイツのマンフレート・フォン・リヒトフォーフェン。真紅のアルバトロスD.VやフォッカーDr.Tを愛機とし、味方からは「赤い戦闘機乗り」「赤い男爵」と尊敬され、敵からは「赤い悪魔」「レッドバロン」と言われて恐れられていた。 1915年5月に念願の飛行訓練所へ入所した当時、まだ所属した飛行隊には戦闘機が無く、写真偵察や着弾観測の任務に就いていたが、その後ロシア戦線から戦闘機パイロットとなり、西欧戦線に転属後に「戦機集中投入による敵機駆逐理論」を提唱していたオスベルト・ベルケと出会い、空戦技術が開眼していくことになる。 1916年9月に初撃墜をし、さらに英空軍のトップだったラノー・ホーカー少佐のエアコーDH.2と交戦し、45分に及ぶ激闘の末に撃墜して一躍有名になった。1917年に1月には16機撃墜の武功を認められプール・ル・メリット勲章を授与され、同月、エリート・パイロットたちで編成される第11戦闘機中隊(Jasta11)の中隊長に任命された。この中隊は部隊識別色として機体配色に赤を採用しており、中でもマンフレート・リヒトホーフェンの乗機は全体が赤く、特に目立つ物であった。このことがドイツ国内のプロパガンダに使われ、敵にも「赤い戦闘機乗り」の名が知られるようになった。 1917年4月、ドイツ空軍部隊の大攻勢によりイギリス空軍は空前絶後の損害を出していて英国では「血の4月」と呼ばれているが、このときマンフレート・リヒトホーフェンは21機も敵機を撃墜している。また、1917年6月には、第1戦闘航空団が編制されるとその戦闘航空団司令に任命され、部下に空中戦理論を教えることで隊全体のスコアを上げている。そのため第1戦闘航空団は多くのエースを輩出し、連合軍から「フライング・サーカス」、「リヒトホーフェン・サーカス」と畏怖されられた。 1918年4月21日に、英空軍のウィルフリド・メイ 中尉のソッピーズ・キャメルを追撃中に、オーストラリア地上軍からの対空砲火を胸と腹に受け墜落死した。当時26歳、最終階級は大尉、前人未踏のスコアである80機撃墜(未公認2を除く)を達成し、人物的にも紳士的な態度は天駆ける騎士と賞賛され続けた。 尚、彼の死後、第一戦闘機大隊の指揮はヘルマン・ゲーリング(後のドイツ空軍総司令官)に引き継がれている。 マンフレート・リヒトホーフェンの弟ロタール・リヒトホーフェンも40機撃墜のスコアを挙げ第一次世界大戦を最後まで戦い抜いている。そんなリヒトホーフェン兄弟の名前は第二次大戦後も伝統戦闘航空団の一つとしてドイツ連邦軍空軍部隊の第71戦闘航空団「リヒトホーフェン」に継承されている。 余談になるが、ガンダムに出てくるシャア少佐は、このマンフレート・リヒトフォーフェンをモデルとしている。 |