コラム25.とうとうドイツ空軍の戦闘機実戦配備図が完成
 
 スペース的にかな〜り苦労したドイツ空軍実戦配備図が完成しました。Fw190とJu88が多目的機として色々な任務をそつなくこなしたもんだから、その派生型番やツリー化にも苦労しました。Bf109シリーズから左へMe262A-1までが制空戦闘機。He162とMe163Bが迎撃専用機。Ar69から始まるツリーが夜間戦闘機。Bf110Cから始まるツリーが長距離護衛機。Ju88C-2から始まるのが戦闘爆撃専用機って感じで図面化でしました。

 第二次世界大戦勃発前には、やはりBf109初期型の存在が際立っています。もし1937年に勃発していたら他国でBf109初期型相手に善戦出来そうなのは英国のハリケーンのみですなぁ。He51とAr68は複葉機でスペイン内戦でI-16に敵わなかったのは以前のコラムで書きました。Ar68はその時点で早くも夜間戦闘専用機の道へ進む事になります。
 で、第二次世界大戦勃発のポーランド侵攻時にはBf109は既にE型が配備されていますので、ポーランド・デンマーク・ノルウェー・オランダ・ベルギーと電撃戦を航空優勢で展開。英国の支援を受けたフランスも占領化に置き、いよいよ対英国本土へバトルブリテンへ向かうことになした。ここで初めてドイツ空軍はつまずく事になりました。Bf109E型は英国主力戦闘機のスピットファイアMkTと互角の空戦を行なえますが航続距離が足らなかったんですね。Bf110という長距離護衛機は鈍重すぎて役に立たたず、味方爆撃機の損害は日増しに増えていくことになり、英国本土進攻は中止になります。ドロップタンク付きのBf109E-7とFw190A-1がもう少し量産が早かったらこの英国本土侵攻はどうなっていたか微妙な感じです。特にFw190A-2の登場はドーバー海峡の制空権を完全に確保しました。
 北アフリカ戦線が本格化してくると、Bf109も大幅に改良したF型が登場しましたが、米国空軍が本格的に参戦してきた頃でイタリア降伏までの1944年まで、西部戦線の昼間制空権は互角の戦いとなります。
 英国本土上陸作戦を棚上げしたドイツは、突如、ソ連へ向けて東進します。バルバロッサ作戦の発動です。この東部戦線では最初の約半年間にモスクワの一歩手前まで迫る勢いで、制空権はBf109GとFw190Aが完璧に確保しました。
 その直後、ロシア最強の兵器である冬将軍が到来。ここからドイツ地上軍及び空軍は、ロシアの大地とソ連軍の物量作戦により常に劣勢で戦う状況に陥り西へ押し返される状況になりました。ドイツ国内も西側から英米の戦略爆撃を受けるようになり、イタリアは先にあっさり降伏してしまうし、ノルマンディ上陸を行なわれ、1945年の敗戦まで本国防衛戦しか出来なくなる状態に陥ったのです。ナチスドイツ末期には、優秀な新型機を各種開発し実戦投入するも戦況を覆す事は出来ず敗戦となりした。
 話を配備図の機種に戻しますと、日本機と比べてBf109とFw190のバージョンUPは的を得たものとなっており、常に制空戦闘機は優秀な機種を配していた気がします。しかも、終盤の戦闘機を挙げてみると、制空戦闘機としてFw190DやTa152H-1、初の実用ジェト戦闘機のMe262A-1、ロケット迎撃機Me163、夜間戦闘機に改造されたMe262B、串刺しエンジンの高速戦闘爆撃機Do335など、単機の性能ではキラ星のごとき機体がドイツの空を防空していますが、連合軍の物量に負けてしまいました。あと半年、ドイツの降伏が遅れていたら、試作機がオンパレードの如き続々登場してきた状況ですね。
 ツリーを作って改めて感じた事は、夜間戦闘機の配備が早いです、しかし機種的には多種多様なものを採用せざる得ない状況でパイロットの完熟飛行に難渋していという感じがします。同じく、長距離援護機もその年代によって機種がガラッと変わっていますし、そのうえ、どの機種も目立った働きをしていませんが、Ju88の多用途性が現れている箇所が多いです。
 どっちにしてもこの図。Bf109やFw190の派生型番の話までしていたらめちゃ長くなるので、また後日、別のコラムで話題にしたいと思います。

 
  
 
コラム26.恐るべき空飛ぶ戦艦、二式大艇

 かなり戦闘機に関するコラムが続いたので、ここで、日本海軍が誇る二式大艇(二式飛行艇)の話です。実はこの機体、日本軍機のベストスリーな傑作機に入っていると思います(他はゼロ戦二一型、一〇〇式司偵)。 
  二式大艇12型 PBY-5カタリナ サンダーランドMk3
全 長 28.13m 19.74m 26.00m
全 幅 38.00m 31.70m 34.39m
翼面積 160.20u 130.60u 156.72u
乗 員 10〜12名 7〜9名 8〜10名
全備重量 24,500kg 16,066kg 22,700kg
エンジン 火星 二二型 P&W R-1830 ペガサス23
馬 力 1,680馬力×4 1,200馬力×2 1,065馬力×4
最高速度 465km/h 288km/h 336km/h
航続距離 7,153km 4,096km 4,640km
固定武装 20mm×5
7.7mm×4
12.7mm×2
7.62mm×3
7.7mm×8
爆弾搭載 爆弾2,000kg
又は魚雷×2
爆弾1,800kg 爆弾1,200kg
総生産 36機 4,000機以上 764機

 まあ、私の思いは別にしても二式大艇は、その飛行速度と強武装は、アメリカ兵から「フォームダブル(恐るべき奴)」と恐れられていました。速度に関しては現在のターボフロップ機を合わせても水上機として今だにbPなのだから驚きです。武装においても、魚雷2本を搭載できますし、20mm機銃も5本搭載が標準で、「空飛ぶ戦艦」と呼ばれてました。
 では、第二次世界大戦で、二式大艇と同じように海上偵察したPYBカタリナ、シュート・サンダーライトと性能諸元を比べてみましょう。2機とは比べ物にならない速度・武装と航続力です。なぜ、四発飛行艇にこれだけの性能を求めたかと言うと、ワシントン条約による大型軍艦保有の制限を受けていた日本海軍は、艦隊決戦に向けて攻撃力をもった大型の哨戒飛行艇を欲し、水上機の得意な川西航空機に要求したのが始まりでした。一式陸上攻撃機も同じように艦隊決戦戦力として開発されたのですが、こっちは防弾不備で第二次世界大戦初期の時点でつまづきましたが、二式大艇はそんなヘマな機体ではありませんでした。思い出して下さい、一式陸攻の爆弾搭載量を。爆弾800kg又は魚雷1本ですよ。二式大艇の実績として有名なのは、赤城や加賀を要する機動部隊が真珠湾攻撃した3月後に、マウイ島の復旧状態を偵察するついでにたった3機で真珠湾を再攻撃しています。
 ミッドウェイ海戦の後、二式大艇ほどの大型機が爆撃編隊を組んで強襲する機会は失われてしまいますが、アメリカ軍機は、二式大艇がたとえ単機飛行であってもむやみに近づいてはいけないという鉄則を持っていたほど危険な相手でした。その「恐るべき空の戦艦」は、1943年11月には二式大艇1機がP-38ライトニング3機と会敵し、40分の交戦で1機を撃退、自機はエンジンが2基停止し、230箇所被弾を受け乗員1名負傷という状態で日本本土まで帰還したエピソードも残っています。
 このように強武装で頑丈な本機であったが、その優れた航続長距離が基地哨戒、対潜哨戒、夜間哨戒、偵察任務、海上救難機、海上輸送に引っ張りだこの状態であるのにもかかわわらず常に機体数が不足している状態で、前線基地からは本機の増産の声が途絶える事の無い状況であったが、如何せん、巨大なこの機体の生産は望まれるほどの量産スピードを持つ事が出来ずであった。
 戦況が悪化して制空権が奪われ敵戦闘機の攻撃数が増えると、本機もその重防御が耐え切れず消耗していく事になり、しかも川西航空機の生産力が海軍部の指示により局地戦闘機紫電改に集中したこともあって1943年末の時点で保有数が急低下、1944年は33機、1945年はわずか2機の生産という状態であり、終戦時に完全な状態で残っていたのは二式大艇はたった5機であった。
 所詮は夢の話になってしまうが、ガダルカナルやポートモレスビー作戦時に、大鳳なんて言う役に立たなかった装甲空母なんて作らず、大量に二式大艇を保有してて、大量にガソリンも持っていて、二式大艇が大編隊を編成して、ゼロ戦22型の援護を受けながら敵地空襲を繰り返していたら? うむ〜〜、「もしも」の条件が多すぎますね(-_-;)
 尚、二式大艇を簡易改造して輸送機専用にした飛行艇もありまして、「晴空」という機体名で、外見はほぼ同じですが、固定武装や、爆弾格納庫などをとっぱらって、こちらの機体も少数機ながら飛行場要らずの便利な輸送機として活躍しました。山本五十六の後任の連合艦隊司令官となった古賀峯一大将は、この晴空で移動中に熱帯低気圧に遭遇して墜落遭難し殉職しています。



 
コラム27.いにしえの平和な航空戦、シュナイダー・トロフィー・レース 

 シュナイダー・トロフィー・レースとは、1913年から1931年に開催されていた水上機スピードレースで、開催年度を見るとなんと、ライト兄弟が人類初の原動機付き飛行機の初飛行に成功した年から、僅か9年後です。
 フランスのジャック・シュナイダーの主催で開催されたこのスピードレースは、当時はフラップ等を持たない航空機の為、陸上機では離着陸速度を抑えることが出来ず管理下された長い滑走路も不可欠であった理由から、高速機として実用しやすい水上機でのスピードレースとなっていました。
 途中、大戦による競技停止期間がありましたが1913〜31年までの間に計12回が開催され、国やメーカー、技術者の威信を掛けた白熱したレース人気は、開催を重ねるほど拍車がかかり1931年最後の大会では観客動員数50万人を越える程の一大イベントでありました。
 5年の間に3回優勝するとトロフィーが永久所持出来るという名誉を与えられてレースの開催を終了するというルールで、当初は先進航空国であったフランス、イギリス、イタリア間で争われ、その後、アメリカが参加し(フランスは途中で脱落)、アメリカもイタリアも一度は5年間に3回目勝利のチャンスを掴みましたが果たせず、最終的にはイギリスがスーパーマリンS6Bで平均速度547.305km/hで優勝、1927年・1929年に続き5年間に3回目の勝利でトロフィーの永久保持の権利を得て本レースは終了となりました。
 このシュナイダー・トロフィー・レースは、現在のF1カーレース等と同じように、各国チームが威信をかけて航空技術をぶつけ合い、後年の傑作機を生む土壌を生み出しました。
 有力チームとしては、英国のスーパーマリーン、米国のカーチス、イタリアのマッキやサボイア、ピアッジオ等が国を代表して機体設計を行ない、人物では、後年に名設計士と名を馳せてスピットファイアを生み出す英国のレジナルド・ミッチェルと、イタリアの設計技師マリオ・カストロフィが常に優勝争いを行なうライバル関係でした。
 また、1925年に優勝した米国のカーチスR3C-2という機体のパイロットは、なんと後年にB-25ミッチェルで洋上から発艦して東京初空襲をおこなったジミー・ドゥーリトルでありました。このカーチスR3C-2が優勝したときにイタリアから出場していたのが、映画「紅の豚」で主人公の豚が愛機として有名になったサボイアS21試作機です。
 搭載エンジンではやはり英国のロールスロイス製と、イタリアのフィアット製等がしのぎを削りました。
 そのレース用エンジンは1929年の時点で、英国のスーパーマリン機がロールスロイス製のR2350(最高馬力2,350馬力)で勝利し次回で3回目勝利の王手をかけました。なんとしても2年後の英国の勝利を阻止したいイタリアは、その対抗手段としてフィアット製12気筒1,500馬力のAS5というエンジンを直列に連結したAS6エンジン(合計が24気筒2,500馬力)を設計し、二重反転プロペラ式で実用化しようと切磋琢磨しましたが、その完成が1931年のレースに間に合わず惨敗し、イギリスがスーパーマリンS6Bにてシュナイダートロフィーを永久獲得し閉会しました。
 しかしそのマッキボディにファイアットエンジンのコンビは、シュナイダートロフィーレース終了後も開発が続けられ、最終的に3,000馬力以上にパワーUPされて、マッキMC72というレース用水上機で1934年に700km/h超という世界記録を打ち立てる事になる。このレシプロ水上機のスピード記録は現在でも破られていないから凄い。
 最終優勝したイギリスのスーパーマリン&ロールスロイスのコンビも凄かったが、ことシュナイダー・トロフィーを一大イベントとして牽引して毎回優勝争いに食い込んでいたのはイタリアであった。イタリアの出場機種を数点(レース機は赤がシンボルカラーであった)、ここに画像で掲載しましたが、そのフォルムはなんとも優美で、第二次世界大戦時のイタリア空軍機とは全くイメージが違いますよね。シュナイダートロフィーが終了して約10年で、何故あんなヘタリアになったのでしょう? 



 
コラム28.北アフリカ戦線、制空権争い

 第二次世界大戦の北アフリカ戦線。イタリアのエジプト侵攻から始まる連合軍(イギリス・アメリカ)対枢軸軍(ドイツ・イタリア)の戦いです。この戦場で有名となるのは、ロンメル、モントゴメリー、パットン等、地上軍の活躍話がメインとなるものが多いですが、その地上軍をエアカバーすべく、参戦国の戦闘機たちは激しい空戦を繰り広げています。
 但し、地中海沿岸は別にして、その戦場のほとんどは砂漠が広がる乾燥地帯。ヨーロッパで使用しているままの機体でこの砂漠地帯に常駐配備すると、砂塵と気温の高低差に侵され機体が戦わずして損傷していくという過酷な環境でした。従って、新型機が開発されたからすぐに北アフリカに大量配備しようという訳には行かなかったのです。
 そこで、各国の戦闘機は、主に熱帯用フィルターを取り付ける改造を防塵対策として行ないます。この熱帯用防塵フィルターは、イギリス機ではVokes (ボークス)仕様、ドイツ機ではTrop (ドイツ語でTropische、熱帯の意味)と呼ばれていて、その構造と形は各国で違えど、主に過給機の空気取り入れ口からの砂の混入防止の働きをさせました。また水冷エンジン機にはラジエター前面の防塵も重要なファクターでした。
 もちろん上空での飛行状態ではフィルター部分を開けられる構造となっていましたが、如何せん、空気吸入を抑制している訳ですからエンジンの噴き上がりはアップアップの状態です。
 アフリカ戦線で主力として戦った機体を挙げていきますと、連合軍側では、ハリケーンMkU、キティホークMkU、P-40E/Lウォーホークが主体で、スピットファイアMkXも少数が配備されてました。イギリスの水冷エンジン機種は何れもVokes(防塵フィルター)を機首下面の過給機吸入口を覆うようにしてボディと一体化された方法で装着しました。側面図で見るとハリケーンもスピットファイアも顎がしゃくれた感じになってます。P-40シリーズの防塵フィルターはエアインテイク内にあるため、外観からでは見えません。
 枢軸軍機ではドイツのBf109E型の後期版とF型が主体で、Bf110Cをサブとして配備しており、若干のBf109G-2とFw190A-4も終盤に配備されました。Trop(防塵フィルター)は機首側面の過給機吸入口を直接、筒状のカバーで装着していました。イタリアは複葉のMC.42ファルコを使用していましたが後半からはMc202フォルゴーレなど水冷機種が徐々にまちまちに配備され、ドイツ機と同じ方法でASと呼ばれた防塵を装着していました。
 空戦状況においては、両陣営ともバトル・オブ・ブリテンの教訓を活かし一撃離脱が主体で、華々しいドッグファイトよりも、視界不良な状況が多い中でいかに先に敵機を見つけ優位な位置から射撃するかがポイントとなっていました。イギリスがスピットファイアMkXをあまり多く配備出来なかった為、常にBf109シリーズが性能的に強かった状況でした。また、各国の機種を見てもわかるとおり、敵の機甲師団や陣地などを急襲する戦闘爆撃機が活躍できた戦線でもありました。
 北アフリカ戦線で最も有名な戦闘機パイロットは、185機の合計撃墜記録を持つハンス・ヨヒアム・マルセイユ。当時のドイツ空軍にはもっと沢山の撃墜記録を持ったパイロットがいますが、マルセイユは優れた視力と見越し角射撃の名手で、その撃墜スコアのうち151機がアフリカ戦線でのわずか約1年半の任務期間で挙げたものであり、10分間に8機撃墜、1日に17機撃墜、1ヶ月に54機撃墜、1機を撃墜するのに要する弾数は平均15発と言うような逸話を沢山持っていた。また撃墜記録151機の内、147機が戦闘機であった事は驚くべき戦跡である。彼の乗機するBf109はいずれも「黄色の14」を描いており、ドイツ軍のプロパンダ政策の影響もあり国民的英雄となって「アフリカの星」と呼ばれていたほどの天才的なパイロットであった。私と同じくかなりの男前であったとも言われています。
 しかしそんな天才マルセイユの最後はあっけなかった。1942年9月に、受領して間もない新型機Bf109G-2/Tropで出撃中に、敵地上空でエンジン火災が発生。味方領域まで退避させようとするも、揚力を失って背面で急降下する機体から脱出を行なう際に体を尾翼に激突させてしまい、パラシュートが開かず23歳という若さで墜死してしまいました。