コラム29.アスラン王国傭兵部隊、エリア88
 
 新谷かおる氏の航空戦マンガのエリア88。学生の頃、第2・第3世代のジェット機にハマってしまったのはこのマンガのセイです。マンガの舞台は、架空の王制国家アスラン。中東地域っぽい設定地で、物語は正規軍vs反乱軍という内乱戦の中で、主人公側は正規軍から雇われた腕利きの傭兵パイロット部隊。当時、実際にあった様々な軍事的時事や論争、例えば、「中東戦争」「東西冷戦」「死の商人」「外人部隊」「大韓航空機事件」「武器実験場」等をマンガなりに取り込んでいて、一癖も二癖もある傭兵たちが交わす哀愁の漂うセリフを絡めて人気を集めた。
 しかし、なんと言ってもその魅力は、様々な軍用機を使って腕利き達が繰り広げる空戦だった。中にはかなりの距離からスパローを放ってすぐに反転したクセにちゃんと敵機を撃破してて、「そんなバカな」ってう場面もあるけれど、冷戦時代の政治的制約の多い現実とはちがって、読者としてはスカッとする戦闘シーンであった。その人気は、テレビアニメや映画、家庭用デームなどもあって、専用のカラーやデカールが用意されたプラモデルも発売されていたほどでした。
 それでは、キャラクター達の乗機を思い出してみましょう。主人公シンが愛機としたのは、まずF-8Eクルセーダー。超低空での対地攻撃中に突然金属製の巨大バリケードを張られたら、F-8Eは翼を瞬時に折りたたんでそのバリケードの間をすり抜けた!「それで何故失速しない!しかもそんな瞬時に折りたためるか〜」。次に愛機となったのはF-5EタイガーU。安価で運動性能も良く西側諸国でベストセラーとなり、アメリカ空軍でもアグレッサー機として長く使われた機体ですよね。その後、司令官サキから「最も信頼する七人の兵士」に選ばれたシンはイスラエル製の最新鋭機クフィルを乗機に与えられる。ミラージュVをコピーした機体だけど砂漠に良く似合う良い機体です。その後、サーブ35ドラケンを乗ります。スウェーデン製のシブイ機体です。中学生の頃、海外メーカーでこの機体のプラモデルを買って、そのバリの多さに驚いた事を思い出しました。そして次に乗機となったのは、当時まだアメリカ空軍でもプロトタイプしか無かったF-20タイガーシャーク。私もこのマンガで見て初めて知った機体でした。結局、F-16ファイティングファルコンの市場を崩せずに量産されなかったけど、魅力的な戦闘機ですよね。そして最後の機種となったのがこれもまたアメリカ空軍製の前進翼実験機グラマンX-29。F-20もそうだが、世界に3機しか存在しない試作機なのに仕入れて来れる、恐るべし武器商人のマッコイおじさん。
 主人公シンの周りには、沢山の個性的な傭兵パイロットが居た。元アメリカ海軍パイロットのミッキー、乗機はもちろんF-14Aトムキャット。このF-14Aはイラン空軍への輸出用の機体をイスラム革命のどさくさに調達してきたという時事ネタにもなっている。エリア88の司令官でアスラン王子でもあるサキはクフィルを中心に、ロックウェルB-1やF-15Aイーグルにも乗りました。最年少の黒人パイロットのキムはハリアーGrT、紅一点のセラはA-4スカイホークだけでなくF-104スターファイターにも乗ってました。対地攻撃が得意のグレッグはA-4スカイホークの後に乗ったAー10サンダーボルトUのイメージが強いです。南ベトナム空軍出身のグエンはF-105Bサンダーチーフ。イギリス空軍出身のライウンデルはバッカニア、エリア88古株のモーリスはなんとレシプロのT-6テキサン、脱走兵殺しの3人組みはBACライトニング。武器商人マッコイはC-130ハーキュリーズで物資を良く運んで来ていました。
 一話程度でちょっとしか出てこなかったけど、F-111アドバークやF-100スーパーセイバー、RA-5Cビジランティや、フランス空軍のジャギュアも印象に残っている機体です。あと、当時一番メジャーであったF-4ファントムUは、何故か「その他大勢」とでしか登場してませんでしたね。エリア88と同時期に他誌で連載していた「ファントム無頼」では空自のF-4EJファントムUが一貫して主人公の乗機でした。そうそう、A-6イントルーダやA-7コルセアUなんかはA-4スカイホークとともに初期のエリア88基地によく脇役として描かれていました。
 また、敵であった反政府軍の機体はやられ役ですが、MiG-17フレスコ、MiG-21PFMフィッシュベッド、MiG-27フロッガーD、Yak-38フォージャーと主にソビエト機が多かったです。MiG-17フレスコは私好みの機体でして、K-5空対空ミサイルを搭載したMiG-17PFUも登場しているのを確認出来ます。また、Yak-38フォージャーは、MiGばかり目立っていた当時のソビエト戦闘機の中で、とてもインパクトのあった機体でした。あと敵側にはフランス製のミラージュVも少し登場しています。そしてアメリカ海軍機のF/A-18も何故か良く敵側として出てきました。砂漠で自在に砂へ潜れる地上空母なんてのもありましたよね。

 
  
 
コラム30.エースパイロットへの第1歩、練習機

 マンフレート・リヒトフォーフェンも、エーリッヒ・ハルトマンもハンス・ヨアヒム・マルセイユもリディア・リドヴァクも坂井三郎も、いきなり第1戦級の戦闘機に乗ってエースになったんじゃない。パイロットになる為には、操縦の素直な練習機で段階を踏んで操縦基礎を体に覚えさせていき、その才能を開花させていったのだ。
 したがって第二次世界大戦当時の参戦国は、次期戦力を養成すべき練習機が大量に量産されました。
 どこかの主要参戦国で見られたように、大戦後半になるとろくに飛行時間が無い新米パイロットが前線に向かわなければ行けない状態では敵機からカモになるだけですから、パイロットの戦時養成体制が失策であったと言われざる得ないでしょう。練習機は赤とんぼ等たくさん量産していたらから、やはり軍の養成政策と、人的資産無視の失策ですね。
 それはさておき、練習機の特徴はなんと言っても操縦性能の素直さが要求されます。この素直さというのは、単に旋回力だけでなく、離着陸時のしやすさが絶対条件でそれには低い失速速度の特性を持ち、いきなり失速しないように重心バランスに優れていなければいけませんでした。したがって、特に初級練習機では各国とも複葉機を採用しています。中級になると、ある程度高速を出せる単葉機となり、高等練習となると現役を退いた実戦機種を再利用したり、実戦機から操縦座席を増やしたりする改修を行なって練習機用派生型を生産して最終的な訓練に使用したりしました。
 では、第二次世界大戦における代表的な練習機を見ていきましょう。
 まずは15,000機という空前の大量生産機となった米国製のT-6テキサン。ノースアメリカン社で開発されたこの機体は、当時の練習機としては前縁フラップや引込み脚を採用した画期的な設計で、米国の陸海軍だけでなく連合国各国で使用され、ベトナム戦争の時代まで使用されている傑作機である。また、練習機としてだけでなく、軽爆撃機などにも改造されたり、オーストラリア軍ではこのT-6をライセンス生産したウィラウェイ。そしてさらに武装を装備させてCA-12ブーメランという戦闘爆撃機も実戦配備していました。あと米国では、初等練習機のPT-13ステアマン、中・上等練習機のライアンPT-16など沢山の練習機を保有していました。米国での練習機カラーはまちまちであったらしく、基本的に派手なカラーでパイロット養成飛行団ごとに独自のハデなカラーリングを使っていた事もありました。
 英国でも練習機は沢山量産(英連邦諸国向けを含む)しており、初等としてはデ・ハビランド・タイガーモス、中等ではマイルズ・マジスターやマイルズ・マスター、双発練習機としてエアスピード・オックスフォードなどが代表的な機種です。イギリスの練習機は、ボディ全体もしくはボディ下半分を黄色に近いオレンジで塗られていました。ちなみに、以前のコラムで話題にした標的曳航機は、ボディ全体もしくはボディ下半分を黄色で塗られており、中には黄色ボディに黒で模様を付けてトラ柄に塗られたカラーもありました。
 ドイツでは、初歩としてBu131ユングマン、ゴーダGo145、中・高等としてはアラドAr96となります。アラドAr96はかなり優秀だったようで、ドイツ敗戦後もチェコスロバキアで生産され続けて同国の練習機として長く就役していました。
 日本では、「赤とんぼ」と呼ばれた海軍の九三式中間練習機が有名です。複葉機で中等なんですね。陸軍ではその赤とんぼに対抗して九五式練習機を生生産。この機体はエンジンを積み替えて初等と中等を兼ねる用に設計されていました。日本の練習機は、赤っぽいオレンジ色で統一されていました。このオレンジは練習機だけでなく試作機にも塗られていたカラーです。
 ソ連は、例の女子夜間爆撃隊が実戦でも使用していたポリカルポフPo-2(U-2)を初等で使用し、ヤコブレフUt-2を中等に使用するのが一般的でした。複葉戦闘機のI-15も使用されたらしいですが、さすがに操縦難のI-16は使用してません。
 変わったものでは、カナダ製のフリート・フォートという機体で、飛行学生と教官は前後に段差の付いた独立キャノピー内に位置し、主脚は固定脚であるのであるが練習用主脚カバーがついており、それで手動引込み操作の練習が出来るものであった。



 
コラム31.クイズです。真横からのフォルムで機種が判るかな? 

 さて、今回はクイズです。真横から見たフォルムで機種名を識別出来るかなという趣向です。それぞれの機体は、本来のカラーリングどころか国籍マークもワザと変えています。真横の外観だけで判断してみようという事です。
 それぞれの機体の機種名は、( )の箇所に白い文字色で書いていますので、マウスで選択反転すれば見えるようにしています。出来るだけ先に機種名を見ないでやってみてはいかがでしょうか?
 まずは、入門コースのA・B・Cの3機体です。何れも日本の単座の機種です。ということで、まず基本は機首から見ていきますとどれも空冷エンジンです。むむ、Cはカウルフラップの箇所から排気管が右側だけでも3本見えますね。潤滑油冷却口はどれも下に位置していますがCだけ形が明らかに違いますね。主翼は下翼で特に特徴が見えません。キャノピー位置はBだけがやや後方に位置しています。またCのキャノピーは後ろ部分が長くてやや大きいです。後方胴体を見ますと、Aがかなりの細身で、Bはやや太めで胴体下部から後方に行くほど細くなるという形で、AやCの上部外形が細くなるのとは逆です。垂直尾翼を見るとAだけ尾翼後尾がとんがった形で、AとBは丸くなっています。AよりBの方が垂直尾翼が小さいです。
 ということで、回答を致しますと、、Aが(一式戦闘機隼)、Bが(四式戦闘機疾風)、Cが(ゼロ戦五二型)です。真横から見るとBが少し難しかったと思われます。米国機に存在してもよさげなフォルムに見えますね。
 では二問目です。かなり難易度が上がります。D・E・F・Gの4機体とも例によってマーキングやカラーが見慣れていないもので、何れも空冷エンジンの単座ですね。Dに関してはイギリスのカラーリングマーキングが付いてるからと言ってスピットファイアと間違いませんですよね。全体的なフォルム、特にキャノピーの形から機種がわかりますし、キャノピーの前に位置する機銃装備のコブが特徴的な形式だとわかるはずです。
 E・F・Gはどうでしょう?3機種ともコクピット後方のフォルムが似ています。このコクピットの形状はある国の独特のデザインですね。こういう無駄なフォルムにこだわるのあの国では無いでしょうか?見た目は気にしないソ連機ではなさそうです。
 Eは機首がもさっとしててキャノピーから尾部にかけてのフォルムが無理やり細めた感じになっています。ただ、3機種ともよく見るとエンジン排気管が見えていている部分がそっくりですし、同じエンジンのような感じがします。ラジエター位置は何れも胴体下面ですが、Eがもっとも後ろで、Gがもっとも前に位置しています。Gは他の2機種とちがって大振りな垂直尾翼がフィン付き形状となって目立っています。
 というこでは、回答は、Dが(メッサーシュミットBf109G型)、Eが(マッキMC.205ベルトロ)、Fが(フィアットG.55チェンタウロ)、Gが(レッジアーネRe2005サジタリオ)でした。
 いかがでしたか?4機種ともドイツのDB605系エンジンを積んだ戦闘機で、イタリアのファイブシリーズと言われる3機種は、日本人には馴染みが少なくかなり識別が難しいと思われます。
 このクイズ形式、出題側としては大変気に入りました。普段、いかに国籍マークやカラーリングに頼って機種を識別しているかを痛感されたでしょうか?



 
コラム32.流体力学の先駆者リピッシュ博士

 第二次世界大戦時、ドイツには軍事に貢献した優れた博士がたくさん輩出されています。名前を挙げるだけでも、ロケット技術の先駆者であるヴェルナー・フォン・ブラウン、大気圏爆撃を研究したオイゲン・ゼンガー、ワルター機関を開発したヘルムート・ワルター、フォッケウルフ社で活躍したクルト・タンク、ゴーダ社で全尾翼機を現実化させようとしたホルテン兄弟。アインシュタインも元々はドイツ人であった。
 そんな中、優れた航空技術でドイツ空軍をささえたドイツ航空業界において、ひときわ異彩を放った博士が居た。それがアレクサンダー・マルティン・リピッシュである。流体力学の先駆者的存在で、無尾翼・デルタ翼の追求を行ない、ロケット迎撃機のMe163コメートを設計した事で有名。
 1894年にミュンヘンで生まれたリピッシュは、第一次世界大戦時に空中撮影員・観測員として従軍し航空機に目覚め、退役後にツェッペリン社にてグライダー研究機関の一員となる。ドイツ滑空機研究所として再編されたリッピッシュは、この頃から無尾翼機に興味を持ち、デルタT〜X、DFS39、DFS40と次々とデルタ翼グライダーを開発。また、世界で初めてロケット動力で飛行したエンテ・カモをも設計した。
 そしてリピッシュはドイツ航空省の指示で1939年前半、メッサーシュミット社へ派遣され、ロケットエンジン搭載の高速戦闘機としてMe163コメートを開発した。この機体は世界初の実用化された無尾翼デルタ機で、飛行時間がわずか8分ながら一気に時速960km/hに達するというバケモノ機であった。しかしこのMe163機体は、危険な燃料(人を溶解する混合液体)を扱わなければならず、ソリを使った降着も難しく、そして何よりも航続力が決定的に不足していた為、後世、実用兵器としては失敗策であったと判断されている。Me163コメートが実戦配備される中、ウィリー・メッサーシュミット博士との間に摩擦が絶えなかったリピッシュはウィーン航空研究所に移籍し、デルタ翼機が超音速飛行に適している事を証明する為、今度はデルタ翼超音速戦闘機リピッシュ P.13aの開発を開始するが、滑空試験機を製作している段階でドイツ敗戦を迎えていまう事となりました。
 このリピッシュP.13a、機体は全縁60度、翼厚比16.6%の分厚いデルタ翼で、中央先端に突出した空気取入口を設けたラムズジェットを搭載し、コクピットはボディと一体化した垂直尾翼に位置していた。また石炭微粉末を燃料としていた迎撃機であった。最高速度はなんと1,650km/hだから音速の壁を軽くぶっちぎっている(あくまで計画です)。
 しかしリピッシュの流体力学の追求は止まりませんでした。ペーパークリップ計画と称されるドイツ技術者連行によって米国へ連れて来られたリピッシュは、数々のデルタ翼研究の提唱を行なう事になった。特にリピッシュは米国コンベア社とコンビを組みXF-92を試作した経験から、、F-102 デルタダガー、F-106 デルタダート、B-58ハスラーの設計に多大な貢献をした人物となった。また1950年よりコリンズ社にて、地面効果翼機の研究を行ない、その結果として、独創的な垂直離着陸機や空中翼船の設計を先駆けたが、病気が原因で西ドイツに移住し1976年に没した。
 彼は空中撮影員を経験したあと、航空機の速度の魅力に取り付かれた人物といってよく、優れた頭脳と頑固な性格、素っ頓狂な日常の言動で、いわゆる変人博士の代表的なイメージのままであったらしい。