コラム33.エンジンをごっそり入れ替えたら名機になった
 
 第二次世界大戦の時代は、軍用機進化のスピードがかなり早く、主力機であろうとも常に敵より優勢な機体を目指したり、用途バリエーションに合わせたり、機体の延命措置を目的にしてバージョンUPや派生型を開発し生産していきました。通常、どの軍用機も真っ先に手を入れられるのは武装とエンジンを強化型にすることでしたが、中にはエンジンの液冷・空冷という構造自体入れ替えてしまう大工事を行なったものもあります。双発以上の機体の場合、エンジンをごっそり変えても馬力さえ上がればなんとかなりそうですが、戦闘機ともなると、その計算された空対力学のフォルムを崩しかねない大バクチでした。今回は、そんな首から前を基本的構造まで違うエンジンごっそり挿げ替えて、すごく良い機体に生まれ変わったの実例を紹介していきます。
 ソ連では、ラボーキチンのLaGG-3。非力な液冷エンジン(クリモフ105系)で馬力不足に悩まされていた本機は、ソ連当局から優秀な空冷エンジンへの換装を指示されて空冷星型14気筒のシュベツォフAsh82系(最終的に1,700馬力)にごっそり入れ替えました。もちろん液冷から空冷のエンジン挿げ替えは容易では無く、重心や推力中心、補機類の取付け位置など相当苦労して完成させた機体がLa-5です。クルクス戦にも投入されたLa-5は、特に低空での機動は抜群で低速でのループやイメルマーンターンも可能であったほどで、最高速度に関しても、LaGG-3の550km/hから110km/hも早くなっています。La-5は合計9920機も生産された機種となりました。
 イタリアでは、1939年に量産開始された名門マッキ社のMC.200サキエッタ。あのシュナイダートロフィーで名を馳せたマリオ・カストルフィが設計したのだが、搭載出来る空冷エンジがフィアットA74系の870馬力。軍の要求する時速500km/hはかろうじてクリア出来たが非力な馬力は解消されるどころか、保守的な空軍パイロット達からの操縦視界の向上を要求され、空力的にマイナスとなる事は判っていても、操縦席部分を猫の背高のように高く風防もオープン式に変更させられてしまった。ケチが付くと続いてしまうもので、今度は部隊配備準備の段階で原因不明の墜落事故が発生したため一時飛行停止の処置が取られ、結局、部隊配備が1年遅れてしまって直ぐに性能的に旧式になってしまったという不幸な機種であった。
 しかし、MC.200は潜在的には優れた設計を持っていると確信していた設計陣は、同盟国ドイツのダイムラー・ベンツ製DB.601エンジン(水冷V型12気筒、1,100馬力)を入手し、MC.200をベースに、MC.202フォルゴーレを設計。空力を阻害していた背高のコクピットも低いものにし胴体も60cm程延長されたこの機体は、明らかに高性能機に生まれ変わり英国のスピットファイアMkXと互角の空戦を行なえる程でありました。
 日本機でも実例があります。ドイツのダイムラー・ベンツ製DB.601エンジンをライセンス生産したハ40(1,175馬力)を搭載した川崎のキ61三式戦闘機飛燕。その設計は優れた戦闘能力を持った機体であったが、複雑かつ高性能な液冷エンジンに対する日本の整備員の不慣れから整備は難しいものであり、特に前線での運用に苦しむ事となった機体であった。この問題は、稼働率という戦力維持に直接の影響を与え、早々にキ84四式戦闘機疾風に陸軍主力戦闘機を座を譲る事となります。
 しかし、戦時急増体制の中、配色濃くなって混乱が生じ始めた工場側では生産ライン途中の「首無し飛燕」が数多く放置されていました(ピーク時には230機)。しかも、四式戦闘機疾風も搭載エンジンの誉がデリケート過ぎて満足な稼働率を維持できない状態でした。そこで「首無し飛燕」に目をつけた陸軍航空隊はこのに、新開発された空冷エンジンハ112(1,500馬力)を一回り細い飛燕の胴体に半ば強引に挿げ替える作業を敢行。その改造設計は苦心したあげく、太くなった機首部分と細い胴体の段差に単排気管を並べ、段差で発生する乱流を排気ガスのジェット効果で吹き飛ばすように解決し、キ100五式戦闘機として量産開始。少数ながら実戦に出た機体は熟練パイロットからP-51Dムスタングをしのぐ戦闘力を持っていると高評価を得て、実際に本土防空戦でF6FやP-51D相手に優勢に戦っています。しかし1944年末にハ112エンジンを生産する三菱工場が空襲と東南海地震で壊滅した為、五式戦闘機の量産体制がはかどらない内に終戦を迎えてしまいました。かなりの実力も持った機種でしたが時間が間に合いませんでした。
 じゃあ、同じように水冷から空冷にエンジン換装した艦上爆撃機彗星もそうじゃないかと思いがちですが、空冷の金星六二型に積み替えた彗星三三型はそんな性能が向上したわけでもなく、特攻機に使われただけでありました。

 
  
 
コラム34.地味な存在?日本陸軍双発爆撃機

 日本の双発爆撃機っていうと、マレー沖海戦で戦艦プリンス・オブ・ウェールズと巡洋戦艦リパウスを轟沈した海軍機の一式陸上攻撃機(ベティ)と九六式陸上攻撃機(ネル)の2機種が有名で、陸軍機ってなんだか地味なイメージを持ってる方が多い。各種フライトゲームでも存在感が薄い感じです。ということで今回は、第二次世界大戦時に就役していた陸軍双発爆撃機を見ていきましょう。
 まず、キ21九七式重爆撃機。連合軍コードネームはSally(サリー)、三菱の設計です。九七式だから1937年の正式採用で支那事変中期頃から爆撃機の主役として就役しています。当時の陸軍の仮想敵国はソ連で仮想戦場は満州を初めとするアジア大陸です。従って爆撃機に対する設計思想は大陸的で、爆弾搭載量や航続距離を多少犠牲にしても、敵戦闘機の迎撃を振り切れる程度の高速性能を確保する事を重視し、爆弾搭載量の不足は反復攻撃を行う事で補うという戦術思想です。その為この九七式重爆は当時の他国双発爆撃機と比較してもかなりの高速(一型で432km/h、二型で478km/h)であった。しかしこの高速を得るために犠牲とした搭載量・航続力が島嶼戦となった太平洋戦戦争で足かせとなり、重爆であるのにも関わらず最大爆弾搭載量1,000kgしかなく、しかも爆撃予定地までの航続力を得るにはその最大搭載を積んで出撃出来る機会は皆無であった。防弾処理については海軍の一式陸攻よりも優れていましたが、海軍の九七式艦攻と変わらぬ爆撃搭載量になってしまっていました。しかし、この九七重爆は陸軍爆撃機で最多の2,064機量産されました。
 3年後にキ49一〇〇式重爆撃機呑龍、連合軍のコードネームはHelen(ヘレン)、中島の設計が陸軍に採用されました。この機体についても設計思想は九七式重爆とおなじ大陸思想で、性能的に見て武装が強化されたこと以外は九七式重爆とあまり差が無く、またエンジンにも信頼が置けない点があり、特に使いどころが悪く813機だけの生産に終わった機体であった。
 最後に重爆として採用されたのはキ67四式重爆撃機飛龍、コードネームはPeggy(ペギー)、三菱の設計でした。本機も重爆撃機と名称されていながら爆弾の搭載量が低かったが、それを補って余りある飛行運動性能を有していたため、大戦後期の実戦投入にも関わらず際立った活躍(雷撃任務でもか活躍)を見せる事ができた優秀な機種であった。その高性能から重点生産機種となったが空襲の激化により各地の軍需工場が次々と壊滅し、さらに東南海地震による三菱工場壊滅や疎開などの混乱で製造ははかどらず終戦までに生産されたのは635機のみであった。
 陸軍は、重爆撃機と平行して双発軽爆撃機というジャンルも使っていました。重爆でもショボイ爆弾搭載だったのに、「双発の軽爆なんて要るのですか?」って感じですが、その機種はキ48九九式双発軽爆撃機、コードネームはLilly(リリィ)、川崎航空の設計です。もう設計コンセプトは想像つきますよね。戦闘機よりも早く反復攻撃でこれを撃破するというやつです。そしてまた想像通り、戦闘機より早くというのは直ぐにそのメッキが剥がれてします。操縦性能や稼働率に優れながらも、爆弾搭載量が少ない上に、防御火器が貧弱、防火対策も皆無な本機の最後の任務は、胴体に爆薬を搭載して機首に触発信管を装備した特攻機であった。



 
コラム35.ジョンブル魂と木工技術が生んだ奇跡の木製機 

 英国の生んだ「奇跡の木製機」といわれるモスキートは、ほとんどが木製で構成されたボディにロールスロイス社のマリーンエンジン2基を搭載した双発機で、操縦士と航法士が並んで座る並列複座式(航法士席のほうが少しだけ後ろにずれている)のコックピットを持っていた。
 1940年にデハビランド社によって武装を持たない高速爆撃機として木製構造で開発したされたこの機体。設計段階では無武装の木製機という先入観からイギリス空軍からは見向きもされなかったが、この構想に自信があったデハビランド社は自主開発で、爆撃機タイプ、戦闘機タイプ、写真偵察機タイプと3種の試作機を完成させ、当時最高速戦闘機のスピットファイアより30m/h以上も速い速度をたたき出しその高性能を証明し、イギリス空軍を驚かせながらも、試作された3種以外にも戦闘爆撃機、先導機(パスファインダー)、夜間戦闘機にも改造され各分野で活躍した名機であった。
 戦闘爆撃型のモスキートB.Mk]Yの場合の性能緒元では、マリーン77型1710馬力×2のエンジンで最高速度が668km/h、航続距離2,400km、最大爆弾搭載量1,810kg、飛行高度限度11,000mとなっており、ドイツ軍の戦闘機ではMe162しかまともに追いつけない爆撃機である。
 この飛行機の優秀性はその機体にありましたが、機体の構造が樺の木を両側にバルサ材を真ん中にサンドイッチしたベニヤ板のモノコック構造であることが、軽くて強度がある機体の秘密でした。又この機体は生産が楽なように縦に2分割され別々に作ってあとから真ん中でくっつける方法を取っていましたので、非常に生産効率が高く維持できる利点もありました。この成果はデハビラント社の木製に関する技術が優秀であり木の特徴を非常によく把握して、木のもつ欠点を出さず長所を充分生かすように、しかも生産面における合理化まで考えた設計であった。
 モスキートの各バリエーションの特徴と代表的な形式を見ていきましょう。
 昼間爆撃機型は最初の量産型(B.MkW)もこのタイプで、胴体内と外翼パイロンに爆弾を搭載し機銃は無搭載でした。昼間爆撃タイプで最も多く生産されたのがB.Mk]Yで約1,200機。最終的にこのタイプは1,816 kgのブロックバスター爆弾まで搭載出来るようになります。このタイプは爆弾を搭載せずに戦場偵察にも良く使用され、またチャフ散布機やパスフェンダー(嚮導)機の任務に付くのもほとんどはこのタイプであった。
 戦闘機型は、F.MkIIから量産され胴体下に20mm機関砲4門と機首に7.7mm機関銃4門を装備し、やがて対空機上レーダーを機首に搭載した夜間戦闘機型に派生され、NF.MkU、NF.Mk]Uが量産された。戦後には対空機上レーダーをさらに強化し機種の形まで拡大されNF.Mk]Xシリーズも量産されています。
 写真偵察機はPP.MkWなどが生産され、カメラを搭載したタイプで、ドイツでMe162が実戦配備されるとその高速優位性は薄れたが、翼を延長し過給機を装備することで、高高度性能を高めて強行偵察を敢行した。
 戦闘爆撃型は、FB.MkVIから量産されるようになり、低空進入によるピンポイント爆撃に使用さた。また、対艦攻撃用にロケット弾も8発搭載出来る派生型や、機首に6インチ対戦車砲を備えたFB.Mk][という派生型も存在した。
 フランスのアミアン刑務所の壁と警備員の宿舎を爆撃しレジスタンスメンバーを脱出させたり、ノルウェーのベルゲンにあったゲシュタポの司令部空襲では低高度からの非常に精密な爆撃を敢行し囚人を解放して記録資料を焼き払った等、モスキートならでは戦歴も残しており、 モスキートは何れの任務も他機種で同じ任務を実行した際と比べれば損傷率が低く、そのモスキートの優秀性は終戦まで旧式化する事がなかった程でありました。
 そんなモスキートにも欠点がありました。それは熱帯地域での稼働率が著しく低下する事で、原因は木製ボディが湿気に弱いのと、それを合板しているカゼイン系接着剤が劣化、ひび割れて機体外板が剥離し墜落事故を起こし兼ね無い状況であった。
 モスキートは1940年から就役したのだから、当然、他国でもモスキートを模倣して優秀な木製機を製作しようとするのは当然の事です。次回コラムはその他国の木製機を紹介して行きます。



 
コラム36.モスキートに続け!我らも木製高性能機を作ろう

 モスキートでの木製設計を見た他国の軍部は、やっぱり我が国でもモスキート並みの高性能を引き出す木製機を作ろう、となっちゃう訳で、もはや時代遅れとされていた木製での軍用機設計をもう一度見直して、優れた機体を開発しようとしました。
 ドイツでも英国モスキートの影響を受け、高性能な夜間戦闘機として何とあのクルトタンク博士が、フォッケウルフTa154という双発機を設計開発。機体を構成する素材の約50%が木製で、Jumo211液冷式エンジンを2基搭載し、降着装置は前輪式で機首に機上レーダーを積んだ最新鋭夜間戦闘機として1943年12月に正式採用を獲得。ジェラルミンやアルミ等の戦略物資を使用しない経済性もドイツにはうってつけであったし、性能的にも原型機は最高速度638km/h、飛行高度限度10,740mと英国モスキート並みの数値を引き出しました。英国モスキートを意識した本機は非公式ながらモスキトーとも呼ばれている程であった。
 ドイツ空軍首脳陣の期待を受けたTa154は量産準備に入りましたが、木製部分の接着剤を製造していた工場が被災したため代用の接着剤を調達・使用したが、この接着剤の不良のため1944年6月に連続して墜落事故が発生。危なっかしくて飛ばしてられず接着剤改善の目処もたたずに1944年8月に開発中止。50機程完成していた機体は、焚き火の資材となりました。
 日本においても金属製軍用機の時代に木製で作られた機体がありました。立川で製作されたキ106という機体で、キ84四式戦闘機疾風を戦時急増化と称して、戦略物資を必要としない木製で作成し疾風の優れた空戦性能を踏襲させようとしましたが木製化による重量増加を抑える事が出来ませんでした。17%もの重量増加で上昇力・速力が低下。また組み立て用の接着剤に問題があり、試験中に主翼下面外板が剥離・脱落するトラブルも発生、生産は中止となり完成はわずか8機でした。
 金属資材の不足なんて起こるはずの無い米国でも流行に乗っかる形で、XP-77という機体をわざわざ木製の軽戦闘機として設計。ベル社で設計されたこの機体はエアラコブラに良く似た形とサイズであったが、やはり木製化による重量増加を抑える事が出来ず試作2機のみで開発中止。
 他にも第二次世界大戦機に就役していた木製機はありました(ラボーキチンの各戦闘機など)が、高性能を狙ってわざわざ木製を選んで設計したものだけチョイスしました。しかし、こうやって見るとやはりモスキートを開発したデ・ハビランド社の設計思想はすごかったのが判ります。金属よりも軽くしかも強度を落とさない機体構造、接着剤の有機活用、家具加工の伝統技術、粘り強いジョンブル魂などの融合が「奇跡の木製機」を生んだのですね。