その他欧州の奇想天外機 
 フランスを含めたその他の欧州奇想天外機。第一次世界大戦時では飛行機先進国の一員であったが第二次大戦では早々に国土をドイツに占領されてしまったフランス。武装中立国でありながら独創的な軍事開発をおこなうスウェーデン。ソビエトから国土を守るために慌てて各国の軍用機を買いあさったフィンランドなど、各国、当時の国状が現れている。ただし、ルーマニアのIAR-80やポーランドPZLのP.23カラス、ユーゴスラビアのイカルスIK-3なんて、その国の国状を考慮すると傑作機なんだな。

 

Sud Est SE100(シュド・エストSE100 / LeO 50 ) 
 
 フランスのリオレ・エ・オリビエ社でLeO50として設計された双発重戦闘機。リオレ・エ・オリビエ社はまもなく政府国有化によりシュド・エスト(SNCASE)と名を変え、開発機体名もSE100に変名された。
 この機体、外見から滑稽。胴体は長い機首と非常に短い尾部で短く寸詰まり。もっとも変なのは脚の配置で、機首下の首脚で重量の2/3を支え、後ろの二脚は双尾翼の下に配置されている。このヘンテコな首輪式がテスト飛行段階で耐久力問題で手こずる事になる。1939年に第一号が完成し首輪問題を抱えながら翌年になってプロペラピッチの不都合で墜落。それでもシトロエン社工場で300機を生産しようとしたが、その工場がドイツに占領され、SE100は無事、量産されずに済みましたとさ。
 
 
Amiot143(アミオ143)  壁紙(標準)
 
 フランス航空技術局が発行した仕様書に基づき設計製作された昼間・夜間兼用の双発爆撃機にて、「アミオ140が選定されたのは提出された機体のうち、この機体がもっとも醜かったからである」とまで揶揄された無骨な機体。二層デッキ式ゴンドラの胴体に高翼配置の主翼、大きな泥よけをつけた固定脚を持った機体はお世辞にも洗練された設計とは言い難く、性能も悪く、輸送用途や見晴らしの良いゴンドラを活かした大型偵察機としての活路しかなかった。
 
SAAB J21A(サーブ J21A)  壁紙(標準) 

 武装中立国であるスウェーデンが急ぎ自国生産を要求し、SAAB社が開発し採用された機体。エンテ翼機としては、震電が有名であるが第二次世界大戦中では唯一の実用エンテ翼機である。しかも、3車輪式降着装置や射出式操縦席など先進的な機構も盛り込まれていた。約300機が生産されたらしいが、実戦での記録は残ってない。当時の中立国って、日本ではスイスが有名だけど、スウェーデンってちゃんとした軍事力を持ったまま中立を貫いているのだからすごい。
 
Cierve C30(シェルバ C30)  壁紙(標準) 

 世界最初のオートジャイロとして、スペイン人のフアン・デ・ラ・シエルバが開発し、923年1月17日に初飛行を成功させた機体。もともとはスペインにて開発。シエルバはその後、イギリスでシェルバ社を設立し、多くの成功機を生み出す事となった。日本でも朝日新聞社がシエルバ社のオートジャイロを購入し、「空中新道中膝栗毛」というコーナーを連載した。イギリスのアヴロ社やアメリカ合衆国のケレット社などで開発が続けられたが、市場は収束の方向に向かい、ヘリコプターなどの生産に至る事になる。
 
HM-671 Humu(HM-61 フム) 

 米国より輸入して活躍してくれたB-239(F2Fバッファローの輸出型)戦闘機を真似て、フィンランド空軍が国営工場で自力生産したもの。
 ソ連への領土割譲を許してしまった冬戦争でめまぐるしい活躍をしたB-239。数を揃えた強大な軍事力で侵攻してきたソ連軍に対し、寡兵ながらフィンランドの空を守ったのがB-239である。奮戦したそんな機体をフィンランドがコピーしようとしたのは理解に苦しくない話で、1942年10月には空軍から90機の生産注文が出された。
 外形フォルムは、そっくりで少し遠方からなら外見ではまったく区別つかない程似ているが、全金属製であるオリジナルに対し主翼は木製、エンジンもオリジナルのライト・サイクロン9 R-1820に対し、捕獲したソ連製シュベツォフM-63を積んだものであった。
 「フムHumu」という名称は、「humu!humu!」という風のうなる音のことであり、量産されてもその頃のソ連機やドイツ機に太刀打ちできる能力はほとんどなかったが、B-239への愛着がいかに高かったを証明する機体である。
 
V.L Myrsky(VL ミルスキー)  壁紙(標準)  

 冬戦争で英仏等から声援を受けつつも実質の支援は少ししか受けてもらえなかったフィンランド。冬戦争終結後は次第にドイツへと国交を深めていくしか無かった。そんな中、フィンランド空軍は上記のHM-671とともに、来るべき領土奪還を誓う軍事状況から国産戦闘機の開発を行うことを決定。冬戦争ではありったけの雑多な軍用機をかき集めて戦わざる得なかった事を経験した教訓からである。設計機は数を揃えるため安価に製作できる機体として、慌てて国内生産計画を発動。国営航空機工廠(V.L)で製造され、木金混合構造で木製合板張りの主翼、胴体外皮は一部布張りの機体に、エンジンはスウェーデンの海賊版ツインワスプを輸入して使用(1,065馬力)。外見上はフォッカーDrを意識しているが、いちよオリジナル設計とされている。
 当初よりそれほど性能的に期待はされていなかったし、ドイツからBf109等が順調に提供されて来ていたせいもあり、ようやく実戦配備になったのは1944年10月、ソ連との休戦は9月上旬であり、結局、間に合わなかったのである。 
 
Fokker D.23(フォッカーD.23)   

 オランダのフォッカー社が計画したタンデム双発双胴戦闘機。戦闘機の名門であったフォッカーは、2台のエンジンを胴体の前後に配置するタンデムエンジンのレイアウトを取っており空気抵抗や機体のサイズにおける単発機のメリットを狙ったと考えられる。降着装置も小型戦闘機にもかかわらず前脚三点式を採用している。
 しかしその試作機の実態は、非力なエンジンを無理やり直列にしたもので、やっぱ後方エンジンの冷却が問題になちゃって、そうこうしてうちにドイツ軍爆撃機に工場が爆破されたあげく、国土全体がドイツに占領されちゃったのです。