イタリアの奇想天外機 
 ドイツ人が「次はイタリア抜きでやろうぜー」と日本人に言ったという笑い話があるとおり、イタリアはムッソリーニがファシスト政権にて枢軸軍として参戦した訳だが戦意が乏しく各地でドイツ軍の足を引っ張って弱かった。空軍もしかり。ムッソリーニの導きにより慌てて軍備拡大したものだから、エンジンなどの優れた技術が軍備に活かせず、あれよあれよという間に連合軍に降伏したもんだから、「とりあえず配備しました」「ドイツにおんぶ抱っこ」っていう感じの機体が多い。

 


Savoia-Marchetti S.M.85(サボイア・マルケッティ S.M.85
 
 イタリア空軍が1930年代半ばに双発単葉の急降下爆撃機をサボイア・マルケッティ社に開発させた機体。もともと、急降下爆撃機を地上攻撃機の延長として捉え、ブレダBa.65の運用結果から導き出した仕様なのだから片手落ちなのは当然で、試作作業は極めて急ピッチで進められた結果、たいした性能を持つ機体になるはずが無い。木金合成胴体構造、全木製主翼という構造でエンジンはピアッジオP.VII RC35(500馬力)が2基。
 イタリアを取り巻く情勢は風雲急を告げており、とりあえずS.M.85は実線配備されたのだが、この機体に最強の敵が現れた。それは英国軍の戦闘機や対空砲では無く「地中海の陽光と海風」。木製でしかも小型のSM.85は、満足な格納庫のない基地ではひとたまりもなく、たちまち歪みや劣化を起こして飛行不能となり全滅、2週間あまりのうちに戦力を喪失。結局はドイツに頭を下げて、Ju87Bを購入するはめになったとさ。
 
I.M.A.M Ro.57bis(メリディアナリ Ro.57bis) 

 Ro.57は単座の高速双発迎撃機としてジョバンニ・ガラッソが設計担当。角度によれば外見は非常に洗練されたフォルムを持つが、主翼は鋼製桁に木製構造、胴体は鋼管骨組に軽金属薄板張りとなっておりイタリア単葉機の常として構造強度はやや過大気味。試作機は速度が遅いがなぜか採用。でもやはりイタリア空軍の受けが悪く、Ro.57bisとして20ミリ機関砲と500kgの爆装装置を追加、さらに急降下攻撃の為にダイブブレーキの装備することにし急降下爆撃機として用途変更。さらに重量過多になったよね。
 でもやっぱり上昇が遅く、上昇限度も低く、機動性も鈍重なので役立たず。Ro.57bisにトドメを刺したのは発動機の過熱問題でオーバーヒートが頻発し、残る発注はすべてキャンセル。
 ちなみに、Ro57の後ろに表記されているbisっていうのは、改良版っていう意味です。ソ連軍機でもこの表記方法を採用してますね。
 
Caproni Campini N1(カプロニ・カンピニ N1) 

 この機体、何が奇想天外ってウソっぱちのジェット機なんです。イタリアは、突如として1940年8月に「ジェット機」の飛行に世界で始めて成功したことを世界中に発信。その機体がこれって訳。しかし、その実態はターボジェットエンジンでは無く、圧縮空気に燃料を混合し爆発推進力を得る際に、その空気圧縮にレシプロ・エンジンを使用しているというものであった(確かに外見からではわからない)。で、飛行平均速度は210q。この性能も逆の意味で世界を愕然とさせちゃった。もちろん量産なんかされようが無い。
 本当の意味での初のジェット機飛行は、軍事目的で秘匿していたんだが、その1年も前にドイツでHe178が初飛行に成功しており、恥ずかしいたらありゃしない。
 
Breda Ba.201(ブレダ Ba.201) 

 イタリアは、ドイツのJu87のような単発の急降下爆撃機が欲しくなり、1938年にブレダ社に一社特命で試作を命じた。しかし国産エンジンでは要求を満たせる見込みがなく1940年にDB601Aの輸入とライセンス生産でなんとか試作機が完成。試作機テスト飛行は初回に重心位置の変更を余儀なくされるも、その後のテスト飛行は順調に進み高性能が期待されていた。
 でもそこからはやっぱブレタ製。武装を本格搭載したら、計画予定重量よりはるかに超えてボロが出た。しかも、ついていないことに、試作1号機は実弾を搭載しての急降下爆撃テストで爆弾が落ちず引起しに失敗して地面に激突。2号機を完成させて27回もテストしたが、「爆弾さえ積まなければ性能は良好である。」という結果を導き、開発中止。
 
SavoiaMarchetti SM.92(サボイヤ・マルケッティ SM.92) 

 イタリア空軍が長距離援護戦闘機をサボイア・マルケッティ社に依頼し、試作開発されたのがMS.91という双発双胴の機体で、米空軍のP-38ライトニングとよく似た形体であった。しかし搭載可能なアルファロメオ・ティフォーネエンジン(1475馬力)2基では機体重量過多であって満足な性能を出せそうになく、戦闘機としての運動性能も欠けていた。
 そこで空気抵抗軽減と運動性能向上を目指して中央機首を撤廃し操縦席を左側胴体に移転させる大改造を行ない機種名をSM.92としたのが本機。試作機1号機の製造は開始され、エンジンはドイツ製のDV605A-1に載せ変える事も計画された。
 試作第1号機の完成はイタリア敗戦まで続けられていたがドイツに接収され、その後、連合軍の爆撃により地上破壊された。