日本の奇想天外機 
 日本の変わった機体は、発想がユニークなものでは無く、迫り来る連合軍に対しての危機感から、自国の工業力・技術力以上の性能を要求した機体設計が多かったのが特徴。特にエンジンについては、第二次世界大戦中盤以降、職人技のデリケートなエンジンを装備しても前線では稼動維持出来ないなど、国状と矛盾したものが多かった。
 陸軍航空隊も海軍も、終戦近くにB29の本土空襲に対する防空任務戦闘機として数々の設計要求をし、その結果、駆け込み設計した為に変わった機体が多い。

 


閃電(17試試作局地戦闘機 閃電) 
 
 三菱にて、対B29本土防衛用に設計された機体。双胴の推進式レシプロエンジンで、機首に重武装、しかも爆装の可能という高性能局地戦闘機として開発開始される。九州飛行機の震電と共に期待されたが、エンジンそのもの完成の遅れと、その冷却問題、プロペラ気流の悪影響で水平尾翼がふらつく等の問題で開発期間を要し、結局実用化の時期を逸してしまい、終戦を迎えずして開発中止。
カタログスペックでは、全長:13m 全幅:12.5m 最大速度:759km/h  エンジン:三菱ハ43-41型空冷2200馬力
実用上昇限度:12,000m  武装:20mm機関砲×2、30mm機関砲×1
 
富嶽(富嶽 G10N) 

 逆転の切り札として無給油で米本土を高空爆撃できる能力を求めて設計された六発エンジンの巨大爆撃機。
 発端は中島飛行機の中島知久平が考えた「Z計画」からであり、壮大すぎる構想は当時の国内の技術では発動機は開発難しく、その冷却も最大の問題。また排気タービン(ターボ)過給器の性能は勿論、全般に信頼性が得られる見通しが立たず、与圧装置や集中制御動力砲塔、防弾・防漏タンクや消火設備、レーダーなどの設備が無く、更には降着装置のタイヤ一つをとっても解決策を見出せなかった。更にこんな巨人機を大量生産する能力も全く保有していなかった。
アメリカが巨大な生産力にモノを言わせてB29を量産し日本本土を完膚なきまでに空襲したのにくらぺ、富岳はB29にたいして翼面積2倍以上、重量約3倍、爆弾搭載量3倍以上、航続距離も約2倍という壮大さは認めるとしても、何か国力に比べ空しいものが感じられる。。
 
桜花(桜花 BAKA BOMB) 

 これぞ究極の奇想天外機。第二次世界大戦末期、敵軍艦の一撃轟沈を目的とし機首部に大型の徹甲爆弾を搭載した航空特攻兵器。一式陸上攻撃もしくは銀河の腹部に埋め込み式で搭載し、敵軍艦へ向けて時速800キロのロケット推進により特攻を行なう発想で海軍で実用化された。命中すれば一撃で艦船を轟沈させる威力があったが、母機(一式陸攻、銀河)もろとも目標地点以前で撃墜される事が多く、戦果はあまりあがらなかった。独力で離陸する事は出来ず、飛行機というよりもロケット弾の部類なのかも知れないが、打ち出されれば帰還する可能性は皆無なパイロット1名が乗り込むものであり、飛行機と解釈すべきか。
 
(剣 Ki115) 

 第二次世界大戦末期に中島飛行機が開発し日本陸軍が採用した特攻兵器航空機。資材不足に対応するため高価な資材を使わず木材やブリキで製作し、機体構造も可能な限り簡素化されたフォルムとなっている。また、主脚は離陸後投棄、再利用する簡易な鋼管構造のものとし、爆弾は胴体下面に半埋め込み式でを懸架し手動投下するようになっていた。100機を越える機体が完成していたが、実際に使用されることなく敗戦を迎えた。この剣は、体当り用の特攻機という目的で開発されたが、実用化に踏み切られなかった観点からも、戦時急増生産の対応策機という位置づけが正しいと思われる。
 
川崎試作高高度戦闘機(Ki-108 試作高高度戦闘機) 

 高々度を飛来するB−29を迎撃するために各種の迎撃用戦闘機の開発指示を出した中の1機種。このKi107の特異な点は、高高度の与圧対策としてコクピットを気密カプセルにした事である。与圧カプセル内は高度1万メートルで高度3000メートルと同等の気圧に与圧され、操縦者は酸素マスクや電熱服を装備しなくても行動できるようになっていた。あまりに気密性が高かったため操縦者は外の音を聞くことができずテストパイロットに「エンジンの音が聞こえない飛行機を操縦するのは初めてだ」と言わしめたほどであったが、実線に出る時間も無く終戦を迎えた。
 
景雲(R2Y1 十八試試作偵察機景雲) 

 1943年(昭和18年)、最高速度740km、航続距離3,333km以上という高性能の高々度偵察機を求めて海軍航空技術廠が設計した試作機。
 エンジンはアツタ30型発動機を並列に組み合わせ胴体中央部に搭載し、延長軸を使って機首の6枚羽プロペラに伝わる仕組み。また高高度耐用とする為、排気タービンや与圧コクピットを装備するという計画で2機の試作機製造を始めた  でも、やっぱ当時の日本の技術では、排気タービンが装備しきれず試作機1台が完成。で後部エンジンの冷却問題をかかえたままテスト飛行を続行し、飛行中にエンジン火災で墜落。ジェットエンジン化も構想されたが、試作機体が空襲受け開発中止。
 
萱場 かつをどり(かやば かつをどり) 

 萱場製作所によりラムズジェットエンジンの高高度迎撃戦闘機として研究された構想だけの機体。萱場製作所は陸軍の要請に応えて昭和15年に「萱場4型」というレシプロエンジン(英国製ジプシーメジャーエンジン)を備えた無尾翼軽飛行機を試作研究したが、テスト機の事故で開発は頓挫しました。無動力の小型グライダー案もありましたがこれも頓挫。
 しかし昭和18年、動力をラムズエンジンとして研究を再開。予定では、胴体内に萱場1型ラムジェットエンジン(推力750kg)の他、胴体左右に2基ずつ搭載された落下式の離陸促進ロケット(推力合計7200kg)を備え、最大速度は900km/h。武装は主翼内に30ミリ無反動機関砲。
あまりにも突拍子も無い構想だけの機体であったため、長らく後年の航空研究者からも無視されていました。
 
キ93試作襲撃機(Ki-93 試作地上襲撃機) 

 胴体下部に57mm機関砲を搭載して戦車を駆逐するつもりで陸軍航空技術研究所が試作した機体。戦闘機並みの速度を持ちながら低空飛行にて敵戦車上面を撃ち抜くという構想であったが、その構想を実現するための「安定した強力なエンジン」の開発が間に合う訳も無く、空冷18気筒のハー214(1970馬力)を6翔ペラで駆動させたが、はやり重機関砲を搭載した本機には非力で、そのうちに3機あった試作機は爆撃で破壊されたり、組み立て中に終戦を迎えた。
 
キ78試作高速研究機・研三(Ki-63 研三) 

 昭和14年(1939年)に陸軍の要請により高速飛行研究機として帝大航空研究所が開発を開始した機体。研三という名前は愛称ではなく、三つめの研究という意味。徹底的な空力研究を求め、翼面荷重を高くとった主翼にはなんと層流翼。可能な限り空気抵抗を減らす為リベット1本1本にまで気を使った機体は、出来る限り小型にまとめられており、発動機はダイムラーDB601をチューンアップした物を搭載。使用着陸速度は160km/hとすさまじいものであった。
 川崎航空機工業との協同で研究機1機を完成させ、キ-78という機体型番も取得。昭和18年12月には非公式ながら時速699.99キロという日本記録を作った。
 川崎航空機工業ではこの機体を元に、液冷3000馬力で時速850キロを目指した本格的高速研究機を第2号機として考えていたが、戦局の悪化により実現しなかった。機体は無塗装に近い銀色のみで、武装も搭載されていない。したがって左図のようなオレンジの練習機色には塗装されなかった。
 昭和19年に最後の飛行試験を終えた本機は岐阜工場に放置され、終戦時米軍に接収され た時にはスクラップ同然の荒れ果てたものとなっており、そのままスクラップ処理されてしまったと伝えられている。戦時中の非公式記録とは言え、現在まで破られていないレシプロ機として日本最高速度記録を出した機体であった。