ソビエトの奇想天外機 
 独裁者スターリン率いるソビエトは、軍用機設計に失敗すると設計局の閉局はおろか、逮捕される事もある。逮捕後に行方不明なんてのもある。きっとスターリンの命令で、シベリア開墾に強制連行されたあげく凍死したんだろうなぁ。また、ペリヤコフなんて、スターリン粛正による投獄を免れず投獄されており、その監獄期間にPe-2を設計構想して、性能が良さそうだったもんだから釈放され、ペリヤコフ設計局として活躍したってのもある。「こういう軍用機を設計しろ」と強引な性能要求を突きつけられ慌てて設計させられるんだから奇想天外機も結構ある。しかし、資料が少ない。タイロフT-1とかニーチキン/シェフチェンコIS-1とか写真や画像が見つからない。
 たぶん、詳しい資料があれば、一番奇想天外な設計が多いのは、この当時のソビエトでしょう。

 


Ant-20(アントノフ Ant-20
 
 1933年から開発された8発エンジンの巨人機(全長: 33m 翼巾: 63 m )。翼の中はエンジン配置位置まで立ち上がったまま歩けるほどの空間を持っていた。
 社会主義宣伝の為の高出力放送装備を備えて「マキシムゴーリキー号」という名称を貰ったほど、独裁者スターリンに認められていた機体であったが、1935年5月モスクワ上空でのデモ飛行中に他機と接触し乗組員45人が死亡する事故で墜落大破。機体も期待もデカかったし、最後もデカイ話題を提供した。
 
K-7(カリーニン K-7) 

 HISのプレミア機体にもなっているカリーニン設計局で開発された巨人機。
上記のAnt-20とほぼ同じ頃、競争開発されて全幅:53.0m、全長28.0mと少し小ぶりだが、大型爆撃機兼輸送機として期待されていた。
 しかし、1933年8月に初飛行したが同年11月に尾翼が折れて墜落。さらに2機の試作で改良に苦しめられて1935年に開発中止。重量に対して機体構造強度が足らなかったんだな。
  
Gu-1(グドノフ Gu-1) 

 ラボーチキンの戦闘機って、LaGG-3、LaGG-5って開発されLaGG-5の改良版からLaG-5となってGが一個減って、LaG-7、LaG-9って続く。それは、LaGG-5の途中の設計までグドノフという設計士が参加してたからです。グドノフ設計士は、ラボーチキン設計局の一員としてラボーチキンとゴルゴニフと共にやってたんだけど、めでたくラボーチキン設計局から独立したんだな。で、勢いこんで第一号として設計開発した機体がGu-1です。
 その設計はエンジンをミッドシップ配置した米国エアラコブラのまったくのパクリ。エアラコブラスキーっていうあだ名も付けられちゃった。しかも技術が追いつかず重量過多となって試作機はあえなく墜落し、開発放棄となる。この失敗でグドノフ設計局は1機種目で1943年に解散した。 
 
Tb-3 & I-16(Tb-3パラサイトファイター) 

 第二次大戦時に実線投入されたパラサイトファイター(寄生戦闘機)として有名。もともと、パラサイトファイターはイギリス空軍の発想であるが、ソ連ではTb-3の翼に爆装したポリカレフI-16を寄生させ、ルーマニアのネグラ・ヴォダ橋の攻撃を行なった。
 母艦であるTb-3はコクピットや機銃座は天井がむき出しのままの一世代前の旧式爆撃機機である。まあ、母艦機の搭乗員はまだマシ。I-16に搭乗しているパイロットは戦場近くまでは母艦の兵員室で暖かい飲み物を飲んで英気をやしなうなんて出来ない。飛び立った飛行場からずっと翼下にぶら下げらたままなので、極寒の冬のソビエト上空では戦場に到着するまでに凍死するかも知れない。そういう兵員の過酷さに平気なのは、当時のソビエトらしいかもしれない。
 フライトシュミレターのIl-2ゲームソフトでは、この組み合わせで飛ばす事が出来る。

 
 
Su-3(Su-3_I-107) 

 第二次大戦後期にスホーイ設計局にて試作設計した機体で、レシプロエンジンとモータージェットとの混合動力を備えた戦闘機であった。ナチスドイツのターボジェット機Me262が実戦投入していたことに刺激され、直ちに大量生産が可能なターボジェットが存在しないソ連は、混合動力に期待したのだ。本機は主翼を層流翼に変更した試作機にて高度4350mでモータージェットを作動させ最高速度793km/hを達成したがエンジン関係の耐久問題を抱えて計画は中止された。
 第二次世界大戦時のスホーイ局は、前作のSu-2(単発攻撃機)は若干数が部隊配備されただけであとの設計は成功しなかった。第二次世界大戦が終わった直後も、Su-9、Su-17などの初期ジェット機が失敗に終わりスターリンからにらまれて一時は閉局されているんだが、その後はフラゴン、フィッター、フェンサーなどそれ相応の実戦配備機を作り、フランカーシリーズの開発でロシアジェット戦闘機の代表的設計局にのし上がりました。
 
GI-1(ベレズニアク・イザイエフ GI-1) 

 ソビエト当局はベレズニアクとイザイエフの設計チームに、成層圏での迎撃任務に使用できる戦闘機を狙ったロケット推進エンジンを動力とする戦闘機の設計を要求。そして1942年に初飛行させたのが試作第1号機となるBI-1.。
 やはりりドイツ軍のMe163と同じく、高速でかっとぶ(時速675キロ)が数分だけの航続時間しか得られず実用化には踏み切れなかった。で、この設計はBI-2〜BI-5と研究を続け、BI-6では翼端にラム・ジェットエンジンを搭載して試験されたが、これも期待はずれに終わり、結局6種類とも試作機だけで開発計画は中止となってしまった。
 
Mig-13(ミグ Mig-13) 

 ソビエト国家防衛委員会がドイツのMe262に対抗出来る高速戦闘機を要求したことにより、ミヤコン・グレヴィッチ設計局で1944年から開発開始された試作戦闘機。I-250というプロトタイプ名で完成した機体はメインエンジンを液冷クリモフVK-107R(1650馬力)、加速用エンジンにハルシチョコフニコス・VRDKモータージェットを装備する混合動力機であった。I-250の1号機はテスト飛行中に水平尾翼の損傷で墜落したが、2号機にて加速ジェット使用時に時速825キロの速度マーク(但し10分)し、量産50機の指示を受けた。上記のベレズニアク・イザイエフ系と違ってロケット単体では無いので、実用性があると判断されたのだ。
しかし、ドイツの降伏によりナチスドイツのジェットエンジン技術が入手出来るようになったおかげでMig-9やYak-15の登場により、本機のような混合動力機の生産は1948年に中止となった。量産型Mig-13は16機存在していたと言われる。
 
A-40/KT-40(アントノフ A-40/KT-40) 

 アントノフAー40またはKT-40呼ばれるHISではおなじみになっている戦車を合体させた機体。飛行機というより滑空機(グライダー)である。1940年にコンスタン・アントノフ設計局によって試作開発され、戦場前線へすばやく戦車を送り込む手段としてT-60軽戦車そのものをグライダー化したものである。戦場まではPE-8やTR-3によって牽引し、着陸後には着脱式の主翼等のグライダー部分を破棄して戦車として戦う構造になっており、戦車部分に搭乗しているパイロットは一応は操縦幹が付いていて滑空姿勢のコントロールぐらいは出来る仕組みになっていた。試作1号機は1941年に完成したらしいが、失速速度が時速110キロあたりの為に着陸速度が早くて、戦車部分の損傷を避けられないのが実情だったらしく開発中止となっている。
 日本陸軍でも特三号戦車クロという同じような滑空戦車が1943年に研究されたが試作機完成する前に開発中止になっている。